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世の中にはたくさんの本がある。例えば小説、例えばビジネス書、例えばエッセイ、例えば学術書、例えば…

それから世の中には「本を1000冊読め」とか言う人もいる。そういう人に限ってショウペンハウアを読んでいないというのは滑稽だ。そういう人に限って他人の言葉でしか語れないのは滑稽だ。

まぁそんなことは今はどうでもいい。僕が言いたいのは本には読むべき本と読むべきではない本、それから自分にとって読めない本と、読みたくなる本がある。前者は特に言うまでもない。後者は認識をすり合わせる必要がある

僕の言う読めない本というのは決して面白い、面白くないとかそういうものではない。もっと唯心論的な物だ。それはすなわち、それが等身大の自分の投影であるか、理想の自分の投影であるかということだ。多くの人間には理想の自分と現実の自分がある。その差が小さいような人間には僕の話は露も知らない。しかし僕のように乖離の激しい人間にはこの問題は大きくのしかかる。

僕のような人間は、等身大の自分を見たくないといったような性質がある。そのくせ、自己観察をしてまた鬱屈とするのだ。嗚呼めんどくさい。

本を読むという行為はインプットであると思う人が多いだろう。しかしこれは認識不足だ。本を眺めるという行為はインプットだが読むというのはアウトプットも含まれる。文章をかみ砕き自分の言葉に変える行為であり、自分の性質、自分の心、自分の知識とすり合わせ、それからそれらを見つめなおす必要がある。だから辛いのだ。

つまり、自分にとって読めない本というのは、自分の嫌な一面に真っ向からぶつかる必要があるということだ。だから読めない。

それでも僕は自分の嫌な一面を見つめようと最近思った。だから読めないと分類されても読むということをしている。それがいつか自分の救いになるのならと思っているからだ。

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