柿が熟すまで
久しぶりの秋空の日、祖母の家で柿を剥いだ。
仏壇にお供えしていた2つの柿は、まだ熟しておらず、かたい。祖母に「ひとつもってかえりなさい」と言われたけど、皮を剥いで切るのがとても面倒だったので、「ええ、いいよーおばあちゃん食べなよ」と言ったら、「ほなここで剥いでいったらええやん」とあっさり言われ、そうすることにした。
柿は前に、一度だけ剥いだことがある。なぜ柿を食べようと思ったのかは詳しく覚えていないけれど、ただ果物が食べたかったんだと思う。スーパーでパックされた、すでにカット済みの色んな果物が入った詰め合わせは300円ぐらいで、山のように積まれた柿はひとつ80円ぐらいだった。迷いなく柿をひとつ手に取って、面倒だなあと思いながら家で剥いで、ひとりで食べた。思いのほか甘かった。
その時にネットで検索した柿の剥き方で剥こうとしたら、祖母が止めた。
「柿は先に底の方からするすると、こう、まるく剥くんやで」
包丁を器用に動かしながら、手本を見せてくれる。わたしはまず、4等分にしてへたをとり、それから皮を剥こうとしていた。
「そのあとヘタをとって、切り分けるの」
とりあえず言われたとおりに、底の中心から包丁を入れ、くるくると柿を回しながら、皮をするすると剥いでいく。りんごの皮を丸ごと剥いでいるようだったけど、りんごよりも小さいし、手に馴染みがいいため剥きやすい。
りんごの皮むきといえば、思い出すのが中学生の時の家庭科の授業だ。りんごの皮を、時間内にどれだけ長く剥くか、というテストがあった。剥いだ皮の長さと重さを測って、それが点数になる。わたしは結構な分厚さで皮を剥ぎ、長さも短かったため再テストを受けなければならず、嫌だった。こんなの長く剥いで、生きる上で何の意味があるのだろうか、と思った。他にもお箸だけで卵焼きを焼くテストもあった。箸ではうまく焼くことができず、こちらも良い評価をもらえなかった。こんなんフライ返しがあんねんから、わざわざお箸を使わんでも、それでひっくりかえしたらええやんか、と思った。今思えば家庭科の授業って、ちっとも面白くなかった。
「そうそう、ええ感じや」
祖母はわたしが皮を剥く様子を見て言った。
この歳になっても褒めてくれるのは、祖母ぐらいだ。母からは怒られた記憶しかないけれど、祖母は幼い頃から、いつもわたしを恥ずかしくなるぐらい褒めた。祖母がいなかったら、わたしはここまで生きていられたのだろうか。今でも時々、そんなことを思う。何にせよ、大人だって褒められたいし、優しくされたい。人間である限り、いや、人間じゃなくても、ワンちゃんだって「良い子良い子」と褒めたら尻尾を振って喜ぶし、植物だって、「かわいいね」とか「綺麗だよ」と言って水をあげると、美しい花を咲かせると聞いたことがある。
生物とは褒められたいものなのだ、多分。
皮を剥いだので、切りやすいように柿を少し斜めにして、半分に切った。
「これがもう少しやわらかくなったら、皮と身がくっついてしまって、うまいこと剥かれへんねん。だからかたい今のうちに剥いておくんやで」
なるほど、食べられなかったら食べられなかったで、その時だからできることもあるのか、と思った。きゅっ、きゅっ、と包丁を動かして、ヘタをとる。そしたら、またそれを食べやすいように3等分にする。
「できたらこれに入れ」
と言われ、祖母に差し出されたのは、マーガリンが入っていた空き容器だった。祖母は家にたくさんマーガリンの空き容器を集めている。
「今日はかたいけど、もう明日か明後日になったらやわらかくなって、ちょうど食べごろになって美味しいよ。なるべく常温で置いといたほうがええかなあ。まあ冷蔵庫に入れてもいいけど」
マーガリンの空き容器に入れた柿を、持ってきたビニール袋に入れて帰ろうとすると、ちょうどゴーン、と近くのお寺から鐘の音がした。5時だ。もうひとつ、ゴーン、と音が鳴る。
柿食へば、鐘が鳴るなり、法隆寺。
正岡子規の句を思い出しながら、家まで歩いて帰った。ビニール袋に入ったマーガリンの空き容器からは、柿同士がゴロッと小さくぶつかる音がする。カラスがカァッと鳴きながら、少しだけ暗くなった空を飛んでいく。柿はまだ食べていないし、法隆寺の鐘は聞こえないけれど、ちょっと肌寒い風にあたると、もう秋か、と思った。
その日一晩は常温で、そのまま容器を出しっぱなしにしておいたけど、やっぱり気になって次の日には冷蔵庫に入れた。柿はまだかたい。だって昨日の今日、そりゃそうだ、と思いながら、いつになったら食べられるのか、早くやわらかい食べごろになってくれないかなあ、とうずうずする。
柿食えず、実が熟すまで、空き容器。
なんつって。
マーガリンの空き容器の中で、柿が熟すのを待って、2日間経った。正確にいえば、少し忘れかけていた。蓋をあけると、ちょっと熟してやわらかそう。夜、口に放り込むと、少しひんやりした。ちょっとかたいかな、でもこれぐらいのかたさのものを食べたい気分だった。
徐々にでも熟すんだなあ、と思いながらもう一つ、口の中に入れる。
変わっていく。目に見えなくても、変わっていく。夏が終わり、秋になるように、そしてかたい柿がやわらかくなるように。
9月に入り、わたしはまた一つ歳をとった。ずっと子どものような価値観を持ったまま、体だけは変化して、そのズレだけがどんどん広がっているような気がして、時々不安になる。どうなんだろう、わたしはちゃんと熟していっているんだろうか。そんなことを、ふと思う。
いつになったら本当の立派な大人になれるのだろう。立派じゃなくても、大人っていつになったらなれるのだろう。柿の中に埋め込まれたタネのように、変わらないものがあってもいいのかもしれない。
誕生日なんてひとつもうれしくないけれど、この歳まで生きていることは、ちょっとすごいことのように思う。この時だから、この1年だからこそ、できることはきっとまだまだあるのだろうし、気長に変化を楽しみながら生きていけたらいいなあなんて思っている。
そういえば、今日食べた柿はタネがなかったな、と思った。
ありがとうございます。文章書きつづけます。