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私と亡き母は「未来列車」の関係①

母が亡くなって20年以上経つ。

何故、今になって母の事を綴るかと言えば、私自身が2児の母となり、心の中にこれまで以上に母が登場するからだ。子育ては自分育てとよく言うが、私も例外にもれず、自分という人間を直視するようになった。そうしていくうちに、自分と子どもという関係を通して、私と母の関係を問いただすことが増えた。それもあまり良い感じではなくて、モヤモヤ感に近いものが生まれてきたのである。
うーむ、これは母の関係を紐解いて結びなおす必要がある。なぜなら、私は「母が大好き」だからだ。

母との別れ

風邪を引いて数日寝込んでいた母が、仕事中の父に連絡をして大学病院に連れていってもらったのが最後、そのまま生きて家に戻ることはなかった。

社会人1年目だった私は「おかあさんが入院した。パジャマを買ってきて欲しい。」という父からの連絡を受けて、足早に病院に向かった。

「パジャマ買ってきたよ。」と伝えた私の言葉に弱々しく頷いた母は、そのまま集中治療室に入っていき、それが最後の会話となった。

数日間、身体は地球(ココ)にあったが、身体はみるみる浮腫んでいき、母とは思えない姿になって、全ての医療機器を止めた瞬間に静かに逝った。

母は「心筋炎」という病気で亡くなった。簡単に言うと心臓の筋肉にウイルスが入って心臓の動きを妨げてしまう病気。風邪の症状と大して変わらないらしく、素人感覚で思うに、その人の免疫力や抵抗力で立ち向かうしかない病気だと思う。
母は頭痛持ちで頭痛薬とお友達だったイメージは強いが、至って健康だった。

しかし、亡くなる数年前にも心臓の心膜にウイルスが入って入院したことがあり、そういう意味で弱かったのかもしれない。

実は、母が風邪を引く前に私が風邪を引いていた。もう記憶が定かではないが2日ほど仕事も休んで割としんどい症状だった。あまり食事も喉を通らなかったが、私の好きなタラ鍋を母が作ってくれて美味しいなぁとしみじみ食べたことを覚えている。

「私は風邪を引いていた。そして母が風邪を引き、この世を去った。」

精神衛生上、紐づけするのは良くないと分かっているので深く考えないようにしているが、この事実はいつも心の片隅にある。


私は泣いたのか?

時々、何かの折に「おかあさんが亡くなった時にちゃんと泣きましたか?」と聞かれる。

そりゃ泣くやろ!と瞬発的に思うわけだが、冷静に当時の事を思い出すと、思い切り泣いた記憶がないことに気付く。その頃は父とも兄弟とも折り合いが悪かったし、誰とも悲しみを共有することもなく、ひとりで歯を食いしばって泣いていた気がする。

「私が変わってやりたい。」と、最期にかけつけた祖父母や母の弟が何度も母の名前を呼びながら泣き崩れる姿は、私の心に強烈に残った。子供を失った祖父母の悲しみは、私の悲しみとは比較にならないほど辛いことに感じた。

そして、自分で勝手に「父親と兄弟」のこれからの生活を背負い込み、私は悲しみを放出する間もなく、母のいない生活をスタートさせた。

こうやって書くことで気付いた。

そう、私は自分の感情を大切にしなかったんだな。

母が亡くなって、とてもとても悲しかったこと。

どうして、あんなに早く旅立たないといけなかったんだ!!という怒りに近い悲しみ。

自分の中にこれまで沸き起こったことのない様々な感情にどうやって向き合っていいのか分からないまま、その気持ちを無視するかのように突っ走ってしまったのかもしれない。

そして、今こうやって綴ることで、私は私の心の奥底にあった思いを昇華させているのだろう。

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