誰のための「ちゃんとして!」なのか?
我が家の6歳と4歳の兄弟は、ひとつだけ習い事をしている。
基本的に習い事に関しては、自分たちがやりたいと意思表示をしてきたら習わせたらいいかなというスタンスではあるのだが、長男が生まれたときから「コレはいいなぁ。」と思っていた習い事があって、ようやく昨年から息子2人を通わせるようになった。実に6年越し。
大好きな電車に乗って通えるということもあって、息子たちもすんなり始めてくれた。
その習い事とは「色彩知育教室」
毎回色を通じて創作活動に取り組み、作った作品について発表する1回完結型の教室。私がいいなと思ったのは、アートには正解も優劣もないこと。そして、みんなの前で自分自身の言葉で想いや考えを伝えられるようになることは素晴らしいことだと感じたからだ。私自身が色が好きだったからということもある。
1年半近く通って、子どもたちも作品作りを通じて表現することやそれを言葉にすることを学んでいると思うし、なによりも母である私が学ばせていただいていると感じている。
とはいえ、教室から親に対して何か指示があるわけではなく、むしろ指示はひとつもないことにポイントがあるのだけれど、私自身が何を学んでいるかというと…
● 見守る
子どもに口を出さない、子供の作品に手を出さない、有るがままを見る
● 感じる
子供たちは色を通じた創作活動を毎回するのだが、私自身が「色」を感じて感性を刺激されている。
● みんな違ってみんないい!
創作活動に正解はなく、同じ課題に取り組んでも全く違う作品が完成する。違うことが当たり前!
保育園の作品を見ていると、具体的な指示があることが推測できるほど土台が同じ作品が出来上がるけれど、教室では最低限の指示(例えば、使う色や素材等)しかないので出来上がった作品は、驚くほどそれぞれ違う。
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特に、ひとつめの「見守る」というところが、私にとってなかなかの修行。色彩知育教室では子供たちに無理に創作活動をすすめない。本人がやる気になるような言葉がけはしてくれるが、決して強要しない。席を立とうとも寝転んでいようとも無理やり座らせるようなことはしない。
次男は4歳ということもあるが、創作活動にムラがあって全然やる気がない日もあるし、出来上がった作品について発表することが少し苦手で、ふざけたことしか言わない。
これが、なかなかにイラっとするのである(笑)
教室の方針・意図は理解しているし、そこに共感して通っているので、次男の姿を丸ごと肯定したいのだが、私の奥底に潜む「ちゃんとやってほしい!」という感情がどうしても出てくる。
安くはない月謝を払って(←ココ、私の中で大きいんやろな。)、電車に乗ってはるばる通っているのだから、何か作品を完成させてほしいし、ちゃんと発表してほしいのである。
先日の教室で、次男は適当に(見える)創作を終わらせて、発表も全然しようとしなかった。
あー、言うたらアカン、言うたらアカン!と思いながら口から出た言葉は「もぉ、そんなんやったら電車見に行かん!」という脅迫の言葉。
教室の後は色んなルートを通りながら電車鑑賞して帰るのが恒例行事で、兄弟共にめちゃくちゃ楽しみにしている。それを引き合いに出してしまった…。言葉を発した瞬間から沸き起こる自分自身に対する非難の声。
「電車見にいきたい!!ちゃんとする!約束する!」と泣き叫ぶ次男の声。
そんなことを言わせたかったんじゃないのになぁと、引き下がるきっかけをつかめないまま教室を後にした。
結局のところ、私の中では電車鑑賞をやめる気は微塵もなかったので、次男に謝って3人で機嫌よく電車を見て帰ったのだが、なんとも後味が悪い。
子どもは毎回自分の精一杯を表現してるよなぁ。親の「ちゃんと」を子供に当てはめるのは違うよなぁ。電車鑑賞をしながら教室の先生に自分のモヤモヤをLINEした。
「ちゃんとして育ってきた私たちには無意識にしみついてしまっている、ちゃんと…。そんな私たち世代だから『ちゃんとって何?誰のためのちゃんとなのか?』このことを心に留めておきましょう。(中略)その場で例え感情が勝ってしまって子供にあたってしまったとしても、後で反省して、これから気を付けようと思ったことが成長。まだまだのびしろあるわーって自分に花丸ですよ。」
そんな返信が返ってきた。
先生、(私よりも若いけど)ちゃんと私の事分かってるなぁ…苦笑。
ちゃんとやる時代は終わったと思う。これからは、いかにリラックスして楽しいことを楽しくやるか、そこが重要。
自分の価値観を子供に押し付けてしまわないようにしたい。
次男に謝った時に返ってきた返事が
「おかあさん、だーいすき!!」
涙出るわ。