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罫線
だいたい小学校に通い始めるころから、この "罫線" で区切られた用紙に文字を書くことが当たり前のように教えられてきた。
ずっとそうであったものだから、別に疑問に思うこともなかった。枠があれば枠の中に、罫線があればその幅で書く。
ちょっと昔の手紙。書状と言われているようなものは、結構自由に書かれていることに気づく。
罫線なんてものは引いてないし、定規を当てながら文字を書く。なんてこともなかったろう。斜めに走ったような文字列も珍しいことではない。
自由で魅力的だ。
文字は大小様々。漢字だから大きく書くとか、ひらがなだから小さいなんてこともなく、それぞれが自由に。
とても自由に筆を走らせているように見える。
子供の頃にやらされた漢字の書き取りなんて不自由極まりない。真四角に区切られた枠の中に十字の破線が引かれていて、そこへ均等に漢字のパーツを入れ込んでゆく作業をさせられた。繰り返し、何度も、同じ文字を。
今や仕事でのやり取りに使われる文章は手書きということはほぼ無くなり、○○体と名前が付けられたきっちり同じ電子文字を誰もが使っている。
手書きで型にはまった文字を量産する必要は無くなったわけだ。
確かにクセ字というのは読みづらいし、フォーマットを揃えたほうが仕事の効率もいいのだろう。
が、今や個人的な手紙のやり取りまでもが電子メールになってしまった。いや、個人のやり取りなんて電子メールどころかSNSアプリか。
もう業務関連のやり取りは電子文字でキッチリやればいいのだから、個人が真四角のマスに向かって同じ文字を何度も何度も繰り返し練習する必要があるのか。
漢字を学ぶために?まぁ繰り返しの反復練習は記憶に定着しやすいのかもしれないが、もう少しスマートに学べる方法がないものだろうか。
(その辺りのことは研究者の皆さんに期待したい)
文書に見える個性
ちょっと昔の日本人が書いた文書の開放感は見ていて気持ちが良い。人柄も伝わってきそうだ。それくらいの生命力を文字から感じる。
キッチリした文字を書けることは才能だろう。努力の賜物かもしれない。
だがソレによって削がれてしまった生命感。生まれ持っていた何か。そういう文字に魅力を感じないのは、それらの文字がどこか電子文字的で、命を感じさせないせいであろうか。
ダラダラと書いてしまったが
こんな事を書くに至った理由は至極単純なことで、罫線をはみ出してジャーナリングしてみると、思いの外自由になれた気がして、「あ、昔の文書はかなり自由な書き方だよなぁ」という、実に単純な思いつきからでした。
次に買うノートは無地のものにしてみようかと思っております。