21グラムの愛のゆくえ
今から100年以上前、ダンカン・マクドゥーガル博士は『人の魂の重さはどれくらいなのだろう』と疑問に思ったという。そして自らの患者6名と、犬15匹を使ってとある実験を行った。
その検証方法は死に際の体重を測り、[死ぬ前の体重]-[死んだ後の体重]=[魂の重さ]であるというなんとも安易で、サイコパス地味たものだった。
死にそうな患者を目の前にして、そんな冷静な実験をこなせるのだろうか。医者という仕事に従事し何十人、何百人と死を見届けて来たからこそ成し得る業なのだろうか。或いは生まれながらに人の死に対してそれ程、心が動かされたりしない人間なのだろうか。
何れにせよ、その場の情況を目にした患者の親族や恋人は彼を「異常だ」と口を揃え言ったに違いない。
「天才」とは時に、「異常」に変わってしまう諸刃の剣らしい。
そんなダンカン・マクドゥーガル博士が世間や周りの人から批判を受けながら出した「魂は21g」という解。これはもちろん、論理的にも医学的にも世の中にある数多の学問やルールにおいて、正しいと証明されたわけではない。
机上の空論であり、信じるか信じないかはあなた次第である。
そして時は経ち、2016年に「きのこ帝国」という、バンドが『クライ・ベイビー』という曲をリリースした。
歌詞の中に、
21gを愛だとしよう
その21gはどこへゆくのだろう
という歌詞がある。
“「魂の重さ」は「愛の重さ」だ”と表現したかったのだと思う。私たちの魂は愛でできている、そう伝えようとしてくれている。
もし、ほんとうに愛が21gあるならば、どうやって使おうか。
21g全てを自分に注ぐ人は「ナルシスト」と呼ばれ、1gずつたくさんの人にばら撒く人は「博愛主義者」と呼ばれるのだな。
兄弟に半分以上注いだら「シスコン」「ブラコン」と言われるのだろうか。同性の相手に8割を渡した人は「レズビアン」や「バイセクシャル」と名付けられるのだろうか。
好きな人は、21gすべてを受け入れて持っていてくれるのだろうか。重すぎやしないだろうか。
私は誰かに自分の持っている愛をすべて押し付けることで、自分の「魂」を他人に預けてしまおうとしてるのかもしれないな。
半分は自分のために、もう半分の半分は恋人のために、そして残りは1gずつ家族や友人に渡せたらどんなにいいだろう。
そもそも「愛」は個体なのか液体なのか、気体という可能性も否めないな。誰も実験しないなら、私の身体で誰か、証明してほしい。
私の中に潜む「21gの愛」は、一体何処へ行きたいのだろうか。