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昔は尾張国でした【都道府県シリーズ第2周:岐阜県 岐南町編no.2】
都道府県ごとに地形・地質を見ていく「都道府県シリーズ」の2周目。
今回は岐阜県の岐南町です!
※前回記事はコチラ👇
地質をもう少し詳しく
岐南町は自然堤防堆積物が網目状に分布する地域でした。
と言うことは、この地域一帯は川の近くだったと言うこと。
時代は完新世(約1万年前~現在)なので、地形は今とほぼ同じ。
つまり近くを流れている河川の過去の堆積物だと考えて間違いないでしょう。
近くにある河川の確認と、もう少し詳しく地質を見たいと言うことで、5万分の1地質図を見てみましょう。
![](https://assets.st-note.com/img/1721775813823-y5Gx1Y8JbX.jpg?width=1200)
岐南町のすぐ南を木曽川(きそがわ)が流れています。
つまり岐南町西部の細長い高まりは、木曽川の過去の氾濫によって形成されたと考えられます。
上図に認められる地質のうち、濃いオレンジ色のものは古い時代の硬い「チャート」と言う岩石であり、その他は第四紀の新しい堆積物です。
第四紀堆積物のうち、木曽川に関係していそうな範囲を赤で囲みました。
その中身は濃い黄色、薄い黄色、白色(無色)であり、これら全て完新世(約1万年前~現在)の河川堆積物です。
![](https://assets.st-note.com/img/1721716458698-fQCs83ycj8.jpg?width=1200)
凡例を見てみましょう。
大別すると氾濫平野堆積物と扇状地堆積物に分けられます。
これらの堆積物の詳細は別途解説するとして、大まかに説明すると以下の通りです。
扇状地堆積物:山地に近い上流側の堆積物
氾濫平野堆積物:平野部の河川堆積物
上の地質図を見ると、主に東側に濃い黄色があり、確かに上流側の堆積物だと分かります。
※北西の濃い黄色は、おそらく長良川(図範囲外の北西を流れている)の堆積物。
一方、薄い黄色は岐南町の東端部から西に分布しています。
つまり、このあたりから平野部になると言うこと。
平野はほぼ水平に近いため、河川は広く分散するような流れ方になります。
テーブルに水をこぼすと薄く広がるじゃないですか。あんな感じ。
ある程度流れれば多少侵食して河道は定まりますが、洪水時に水が溢れ、上流から流れて来た土砂があちこちに堆積します。
それによって新たな凹凸が生じるため、場合によっては流路が変わることになります。
地質図を見ると、氾濫平野堆積物(薄い黄色と白)は岐南町の北から南に、かなり幅を持って広がっています。
と言うことは、木曽川は過去に何度も流路を変更したのではないか?と推察できます。
木曽川の意外な歴史
色々と調べてみると、やはり木曽川は何度も流路が変わっていました。
特に記録が残っている有史以降では、2回変わっています。
![](https://assets.st-note.com/img/1721785611935-VOAgBzh3Lu.jpg?width=1200)
860年代の河道変遷
有史以降では、860年代に木曽川の河道が変わっています。
以前は青線で示すように、岐南町の北端から西端を回り込むように流れ、現在よりもだいぶ北で長良川(ながらがわ)に合流していました。
この河道がそのまま国境(くにざかい)になっていたので、何と岐南町は以前は尾張国の土地だったのです。
しかし860年代の洪水によってオレンジ色の河道に変わったため、木曽川は尾張国の内部を流れる川になりました。
そこで困るのが尾張国です。
当時は治水技術が進んでいませんでしたから、頻繁に洪水が起こる大河川は厄介者でしかないんですね。
以前は北岸は美濃国、南岸は尾張国で負担して整備していたのが、尾張国で全部負担しなければいけなくなった。
そりゃ困りますよね。
そこで尾張は、河道を元に戻す工事を朝廷に陳情し、許可されます。
そして尾張国は工事を開始しましたが、美濃側が工事をさせまいと襲撃します。
この事件を「広野川の争い」と言い、木曽川は当時、広野川と呼ばれていたそうです。
この紛争の解決策として、河道ではなく国境が変更されることになります。
つまり岐南町を含めた青線とオレンジ線の間の地域が美濃国に編入されました。
これで以前のように木曽川の管理を尾張と美濃で分担することになり、両者納得だったのでしょうね。
なお木曽川の以前の河道(図の青線)は水量こそ減ったものの川として残り、現在は「境川」と呼ばれています。
もちろんこの名前は、かつては国境だったことが由来です。
1586年(天正14年)の河道変遷
1586年の洪水で、岐南町の南の河道が変わり、黄色線になりました。
この時にも同様に、オレンジ線と黄色線に挟まれた土地が、尾張国から美濃国に編入されます。
この年は本能寺の変の4年後で小牧・長久手の戦いの2年後なので、秀吉の世です。
つまり美濃も尾張も秀吉の支配下だったため、領地の変更はスムーズだったのでしょう。
今のように治水が発達していなかった頃は、災害の結果として、属する行政機関が変わってしまうということもあったのですね。
今回は以上となります。
お読みいただき、ありがとうございました。
引用・参考文献
吉田史郎・脇田浩二(1999) 岐阜地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),地質調査所,71P.
山田昭彦(2014) 広野事件について.岐阜県博物館研究報告第35号,P.1-8.