だれにも解決できない話
身に覚えのない不幸がとつぜんふりかかってくる、ということはだれにでもある。
リストラされる
いじめにあう
難病にかかる
詐欺にあう
交通事故にあう
などなど。
自分に落ち度があればまだあきらめもつくが、身に覚えのない不幸がとつぜん降りかかってくることもある。そういった中でも最悪のケースとして「熊谷6人連続殺人」が挙げられる。
昨日のヤフーニュースで、被害者遺族の加藤さんがいまも苦悩する姿が報道されていたので読んだ人も多いだろう。
「いつもどおりに会社から帰ってくると、自宅には立ち入り禁止のテープが張られ、奥様と二人の娘さんは殺されてしまっていた」という状況は、想像すらできない。
もちろん戦争だって悲惨である。
ぼくには両者を比べる資格などないが、あくまで加藤さんの苦悩を推し量るために比較させてもらえば、彼には戦火の足音は聞こえてこなかったし、苦悩を分かち合える人もいない。
被害者遺族の会に出ても、こう思ってしまうのだそうだ。
家族全員を一瞬で失い、夫だけが残された点や、加害者に反省が全く見られない点など、いくつかの点では「池袋暴走事故」と似ている。
「池袋・・」の場合は、加害者が車の故障を主張したわけだけど、「熊谷・・」の犯人(外国人)は、支離滅裂な言動を繰り返すのみで謝罪の言葉はない。
そして、統合失調症と診断されて無期懲役の判決が下されている。さらに悲惨なのは、検察すら味方になってくれなかったことだ。
一審の裁判員裁判で死刑判決が出ているくらいだから、責任能力についてはグレーな部分が多い。詐病の疑いもある。にもかかわらず、検察は上告しなかった。
そこで、 ぼくはネットでいろいろと調べてみたのである。検察官に上からの圧力がかかったのではないか、などと思ったわけだ。しかし、結果としては
ということがわかっただけだった。
検察が上告しなかったのは、政治的圧力とか外交的配慮とか官僚の保身とかそういった水準のことではなさそうだ。
ちなみに一審の裁判員裁判で出た死刑判決が、二審の高裁でくつがえって無期懲役になったケースはこれまでに7件ある。
熊谷の判決も、「裁判員制度の導入で厳罰化が進む傾向に歯止めをかけたもの」という受け止め方が一般的であり、市民感情に流されずに法律を適用した妥当な判決として、専門家のあいだでは一定の評価がされている。
そういわれれば、感情に流されている一市民としては納得するしかない。ただし、現在の加藤さんはこう思っているそうだ。
ぼくは一市民として感情的になってはいけないが、加藤さんはいくらでも感情的になっていいと思う。
それから、加害者のペルー人男性だが、実の兄も25人を殺害しており、「ペルー史上最悪の連続殺人犯」と呼ばれているそうだ。
そして弟と同じく統合失調症と診断され、ペルーの医療刑務所に収容されている。二人とも劣悪な家庭環境で虐待を受けていたうたがいが強いらしい。
こうした負の連鎖を解決することは、司法にはできないし、だれにもできない。スピリチュアルや新興宗教のようにカルマがどうのこうのといっても始まらない。
カルマだがどうだか知らないが、加藤さんの役に立たない正解は、赤の他人が自分を納得させるための正解でしかなく、正解という名の暴力である。
さて、あくまで素人ととしての意見として言わせてもらう。
無期懲役は終身刑ではないのでいつか出所することもあるのだろう。そうなると、次の被害者が生まれる可能性が高い。さしあたってやれることは、それを防ぐことしかない。