ブルースリーとは違う意味で最強
メキシコでフェイクニュースにもとづいて民衆が暴動をおこし、少年とその叔父がリンチを受けて焼殺されたとの報道をNHKで見た。
狂乱というものについて以前から考えていたことを書きたいと思う。思い出すのは子どものころのモチまきである。
新築の棟上げのあとにばらまくやつ。僕はあれに十回以上は参加したことがあるはずだが、一度もモチを拾えなかった。目の前に落ちてきたモチすら拾えない。普段は温厚な近所のおっさんが目の色を変え、僕の足を踏んづけてかっさらっていった。
モチ一つのために子どもの足を踏んづけて平気な興奮状態に心底うんざりした。このあたりの記憶が原点なのだと思うけど、僕は「生き残るために」とか「生き残りを賭けて」などという考え方にじつはぜんぜん興味がない。
肚が座っているとか命が惜しくないということではない。生き残りに目の色を変えている人と争うのが心底めんどうくさいのだ。
昨今のトイレットペーパー騒ぎにも同じ匂いを感じる。
紙がなければ手で拭けよ
と思う。
話が飛躍するけど、タイタニック号の沈没のような状況も似た感じなのではないか。救命ボートの数が足りなければトイレットペーパーと同じで奪い合いになるだろう。
そんな機会が訪れることがあるのかどうかわからないけど、僕はあの手の奪い合いには参加しないことに決めている。これは博愛精神でも、慈悲の心でも、自己犠牲でも、助け合いの心でもない。あの狂乱に加わるのが心底イヤなだけだ。
そうはいっても、若いころだったら親の悲しむ顔が浮かんできてしまい、「生き残りの努力だけはいちおうやっておこうかな」と思っただろう。でも今ではそんな心配もない。だからある意味最強である。
ついでに、子どもを押しのけてボートに乗ろうとしているオヤジに組み付いて海に引きずり落してやろうと思う。一人一殺である。そのくらいの役には立てる。
妻はぼくのこうした性格を熟知していると思うのでたぶん大丈夫だろう。いずれにしろ、僕は狂乱や熱狂や祭りが苦手であり、そして現在どうしても守らなければならないものがない。その意味では、ブルースリーとはまったく違う意味でちょっと困った「無敵の人」になりつつあるのを感じる。