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いつもハッピーでいたい

みなさん、こんばんは。

"こんばんみ"と書きたいのを、毎週グッとこらえて、こんばんは、と書いているのですが、がまんをしている時点で少し疲れるので、やはりがまんは体に良くありません。

こんばんみと書きたい人は書いたらいいと思います。

さて、わたくしごとですが、9月下旬から四国で認知症の親の相手をしてまして、日々、腹の立つことばかりなのですが、たとえば、毎日ブレーカーを落とされています。なのでブレーカーにガムテープを貼って対抗しています。

それから、ゴミ屋敷の片づけに追われて時間との戦いです。

24時間365日、家を汚し続ける人に対して、帰省中にどれだけ対抗できるか、時間との戦いでもあり、自分の忍耐力との戦いでもあり、毎晩、ちょこっと「ヘイロー3」で遊ぶのが唯一の楽しみだったんだけど、ついに昨晩クリアしました!やったぜ

ゲームのエンドクレジットって映画以上に長いっスよね。でも全部見てしまうんですよ。なぜかというと、クリアした人しか見れないから。

映画だと5分でも長いな~と思うんだけど、ゲームの場合は10分くらいのエンドロールは自分の達成感を味わうにはちょうどいいです。

いつもハッピーでいたい

ところで、帰省して腹の立つことばかり・・などと書きましたが、これは言葉のあやにすぎません。腹を立てながらとりくんでも意味がないと思っているので、いかにハッピーな気分で取り組むか。これが一番の課題です。

腹を立てながら何かをするというのは、二度と帰ってこない人生の一瞬一瞬の大切さを否定するのと同じことだと思っています。

塩沼亮潤大阿闍梨は「目覚めた瞬間からハッピーな気分で一日をすごせる」とおっしゃっていましたが、一介の俗人であるぼくには、まだその域ははるかに遠くてですね。ちょっと油断すると

ドーン・・

とブルーな気分になっていることに気づくんです。これをアップな気分に戻す・・しばらくするとまたブルーになる・・またアップに戻す。これを繰り返しています。このトレーニングをするために実家に帰っているのだと、これは本気でそう思ってます。

読み切り付録

・・・という風に、やや殊勝なことを書いてしまいましたが、ここまでの文章はダミーです。読んでいただいた方、ありがとうございました。ごめんなさい。ここから先はトンデモなことをちょこっと書くつもりです。

違う話題から入るのは、。トンデモに「マジ・モードで」踏み込む前に、ぼくがたまに使うパターンなんですが、でも、以上の文章を心を込めて書きましたので、ダミーとはちがうかも・・。

読み切りの付録みたいなもの

とご解釈ください。なぜこれが必要かというと、ここまで読んでくれた人は

まともな判断力を持つ人に決まっている

と思うからです。なまいきに人様をスクリーニングしているわけですが、ここから先は、そう多くの人に読まれる必要はありません。

先週の補足

先週の多様性についての議論で、よっぽど書こうかなと思ってギリギリで止めたことをやっぱり書いておきたいと思います。

といっても大したことを書くわけじゃありません。

普段はもっとトンデモなことを平気で書くこともありますが、そういうのはネットを探せばいくらでも出て来るレベルのネタなので、カジュアルに書き散らしているんです。

ではなぜ、マジなトンデモ情報を書くことにこれほど用心深いのか。理由はたぶん大きく分けて2つで

①キ〇ガイ扱いされたくない
②おかしな連中に読まれたくない

の2点です。

単なるミエ

まず①ですが、単なるミエですね。ぼく自身、けっこう生涯をかけてトンデモな情報の中からより確かなものを選別しようと取り組んでいます。

これには消去法しかないと思っています。「少なくともこれはウソに違いない」とわかるものをすこしずつ消去していくしかないと。

その具体的な手法の一つが、先々週にご紹介した「未来から見る」というやり方なのですが、こないだの自民党総裁選も、その意味では大いに役に立ってくれました。

スピ系や陰謀論系で「石破さんに決まる」と言っている人は見当たらなかったので、予言だの予測だのといいつつ希望的観測が混じっていることを改めて感じさせられました。

この考察については、いつか書くことがあるかもしれません。

それはさておき、消去法にこだわっているのはシャーロック・ホームズ式です。なにかを肯定することから始めるのではなく、逆に、確実に否定できるものを否定する。それを繰り返して、最期に残ったものこそが、いかに奇妙なことであってもそれが真実であるという方式でやってます。

常識とか、既存の学問的見地からバッサリ斬り捨てる、というやり方を取っていないので時間がかかります。

延々とこうしたことをやってきた者として、そしてとりあえずちゃんとした教育を受けた上でそれに取り組んでいる者として、そう安易にキ〇ガイ扱いされたくないというミエがあります。

なので、軽くオカルトに触れることは多いのですが、マジネタはめったに書きません。

まともな人に読まれたい

次に②なんですが、マジネタを派手に書くと、おかしな連中が寄ってきやすいので、あまり書かないようにしています。

おかしな連中という言い方は失礼かもしれません。「誤情報にだまされやすい人たち」という風に言いなおしておきます。

せっかく重要なことを書くのであれば、できれば、その手の人々の希望的観測のエサにされたくないので、なるべく目立たないように書きたいのです。

まともな議論ができる人、リーズナブルな判断力を持った人々の理解力に訴えるような形で、静かに伝えたい。

とはいえ、まあ、こうやってくどくどと書くようなことは、スピ系や陰謀論者からすれば願望を裏切られる類のことなので、そもそも無視されるだけかもしれませんが。

証拠はない

にもかかわらず、たとえ表立っては書かなくても、暗にそれを前提として、オモテの議論を組み立ててしまっていることはわりにあります。

先週の記事で取り上げた多様性の限界についての議論もそれにあたります。

握っている情報があるんだけど、それをオモテに出すのは避けつつ、話を成立させようとしてパラダイムだのと書いたんですけど、うまくいきませんでした。

今日はその先を書くつもりなのですが、最初に言っておくと、裏付けるデータはありません。また、たとえ十分な状況証拠があったととしても、それを開示するリスクを犯せる役割でも立場でもないので、そういうことはやれません。

そして、十分な証拠を出さなければリーズナブルな人々に訴えることはできないのもわかっていることなので、キ〇ガイのマネをやるしかないということで、なるべくハッピーな気分でやりましょう!

人間の普遍性について

昔から

人類全般に共通する普遍性

みたいなものがよく議論の前提にされますよね。ですけど、この普遍性はどうやって立証されているのでしょうか。

そんなことは見りゃわかる。当たり前だから当たり前だということでしょうか。それとも生活感覚から自然に導かれるのでしょうか。

あるいは、これを否定するようなことを言うと、いわゆるナチス的な優生思想と勘違いされる危険があるので、君子危うきに近寄らずということでしょうか。

ぼく自身が、ある独立したソースから得た情報によれば、いわゆる人類と呼ばれる種族の精神構造には大きく分けて数タイプあって、根本的に相互理解は不可能である、ということだそうです。

これが今日言いたかったことですが、それを裏付けるデータも理論的根拠も出すことはできません。

人類アフリカ起源説

一方で、否定するために役立つ学説はあります。たとえば、生物的な側面からいえば、人類アフリカ起源説というのはかなり有力だと思えます。

それを無視するつもりもないので、そのあいだの整合性をどうとるかというのは自分の課題として抱えているところです。

そういえば、数年前にNHKBS で「ヒューマニエンス」という織田裕二さんが司会をしている番組があって、好きでよく見ていたのですが、そのなかでピロリ菌の話が出てきたことがあります。

大分大学の山岡教授という人が、世界中の人の胃からピロリ菌を採取し、その遺伝子を調べているということで紹介されていました。

コロナのころによく話題になった遺伝子系統樹というのがありますよね。この株は南アフリカで最初に見つかったとかなんとか・・。ピロリ菌でそういう研究をしている人がいて、番組で、その研究成果として下図が紹介されてました。

これを見ればわかるように、人類が最初にピロリ菌に感染したのは6万年前のアフリカらしいです。

あとは図の通りで、アフリカー>ヨーロッパー>アフリカとたどった系列と、アフリカからヨーロッパー>北ヨーロッパー>インドー>シベリアー>北米・南米ー>東アジアという風にたどった系列をたどることができて、日本には1万年前にわたってきているのがわかります。

なかでも説得力があったのが、沖縄県のひとから採取したピロリ菌のみ、中央アジアのカザフスタンとかウズベキスタンとか、そのあたりの人の胃から採取されたものと同類なのだそうです。

沖縄県で、他の都道府県より胃がんの発生率が低いのは昔からはっきりしていたそうですが、理由はわからず、気候が温暖だからだとか、食べ物が違うなどいろいろ言われてきたそうですけど、これで沖縄県だけ胃がんが少ない理由が説明できると紹介されていました。

なお、この研究が学界でどの程度の評価を得ているのかは調べていないし、また、番組では人類アフリカ起源説との関連性は表立っては取り上げられていませんでした。

とはいえ、おそらく人類が10万年まえくらいにアフリカに起源をもつとされていることと符合しますし、また、これは他の情報一般に通じることなのですが、信ぴょう性の高い情報は、異なるソースからウラが取れる場合が多いんです。

なのでピロリ菌も、人類アフリカ起源説を裏付ける一つの傍証だという印象を受けました。

一方で、人類の精神構造は、相互に理解不可能なタイプに分かれるという情報もぼくにとっては同じくらい無視できない重みがありまして、どちらかを簡単に切り捨てるということは、個人的には不可能なんです。

一つ屋根の下

相互に理解不可能という話を最初に聞いたときはかなり落ち込んだし、未だにそのインパクトを引きずっているのですが、その後思い直した部分もあります。

これって女と男の溝と似たようなものではないかと。女性と男性は、ちがうといっても、犬と猫がちがうほどのちがいはありません。

にもかかわらず、いくら話し合っても分かり合えない部分が残るのも事実。

そこをひざ詰め談判で分かり合おうとするとドツボにハマって争いになります。なので、スカして、なだめて、なんとか折り合いを付けて、一つ屋根の下で、いっしょに子育てをやったりしているわけで、理解不能というのは、そういうたぐいのことなのではないだろうか、と。

民族間の対立も、こんな感じで乗り切るしかないのではないだろうか。普遍性を前提として、なんとかしようとするのはけっこう危険なのではないかというのが僕の考えです。

まとめ

多様性の「前提となる普遍性」に懐疑的なのは、19世紀の人間主義に反抗しているのではなくて、これがほんとうのところです。

以上の取り留めない文章を通じて、人間の普遍性について、もしかしたらもう少しシビアな目で見直したほうがいいのかもしれない、という風に感じる人が少しでも増えることと、それを通じて、世の中のもめ事がほんのわずかでも減ることを祈っています。

以上、長々と読んでいただきありがとうございました。

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