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大体のディレクターズカット版がおもしろくないわけ
こないだほめちぎったSF映画『TENET テネット』がまもなくAmazonプライムビデオで配信終了するので、いま2度目を見ているのだが、1つ大事なことに気づいた。
それは、2回目を観るとややがっかりする、ということだ。
この映画はタイムトラベルを題材にしているので、筋が入り組んでいて、1回見ただけではわからないところがたくさんある。しかも「わかる人とわからない人がいる」というような生易しいわけのわからなさではなく、どんなに賢い人でも1回では絶対にわからないレベルで、入り組んでいる。
しかし、大体の人は映画を1回しか見ないので、つまり大半の観客は、訳が分からないままで見終わることになるわけだ。そういう映画を入場料を取って見せるのはたいした度胸がいると思うが、それをやってのけたのが、まあすごいといえばすごいんだけど、ぼくは2回でも3回でも見るので、その点は関係ない。
しかし、がっかりする
しかし、2回目を観つつ(まだ見終わっていません)、いろんなシーンに
なるほど!そうだったのか
と思う反面
なんだかがっかりする
と感じている。このガッカリ感は映画そのものの本質にかかわる話だと思うので、ちょっと本気で書いてみたいんだけど、2回目を観始めた最初は、まさかがっかりするとは想像していなかった。
実際、2回目を見始めて最初の20分くらいは、さまざなま伏線が張られていたことに気づくことができ、「なるほど、なるほど、あれはああだったのか、こうだったのか」の連続でおもしろいのである。しかし、そのうちガッカリ感が増してくる。
たとえば
ネタバレしないように書くので冒頭しか触れないけど、出だしのシーンで主人公が後ろから銃を突き付けられ、撃たれそうになるところがある。
そのとき、彼の目の前には、銃撃戦ですでに穴の開いているコンクリートの壁があるんだけど、その穴に「シューッ・・」とコンクリートが詰まって、だんだん穴がふさがっていくのである。つまり、そのコンクリの穴を含めた一部の空間だけ、局所的に時間が逆転しはじめ、穴が開く前の状態に戻っていくわけだ。
それと同時に、後ろから謎の男が表れて主人公を救ってくれる。
ここがとても神秘的なシーンなんだけど、二度目に見せられると、「なるほど、あそこでああなって、こいつが助けに来たわけね」とわかってしまうのである。そのなるほど感がおもしろいといえばおもしろいのだが、同時に一回目に見た時の神秘性が薄れてがっかりしてしまう。
映画は、頭でわかればいいというものではない。あえて見せないことで観客の想像力をあおっておもしろがらせるところに映画の根本的なおもしろさがあるので、説明しすぎたらダメなのである。
北野さんの作品は説明しないところがイイ
黒澤明監督と北野武監督の対談がYouTubeに上がっているが、そこで黒澤監督が
近頃の日本映画は説明しすぎてダメだ。その点、北野さんの作品は説明しないところがイイ。
みたいなことをいうのだが、そのとおりなのである。
ただし、『TENET テネット』は説明しずぎタイプの映画ではない。むしろ上に書いたように、誰にも理解できないほど説明不足なのだが、ぼくは2回見たので、自分で自分に説明してしまってがっかりしているだけなので、作品に罪はない。
「あの、あまりに説明不足なところが良かったんだな・・」と2度目になって気づいてしまったということで、もし、監督があえてそこを狙っていたのなら、たいしたものである。
フィルムが失われているからイイ
ドナルド・リチー『映画のどこをどう読むか』という名著があるんだけど、その一節を思い出した。
ジャン・ヴィゴ監督の『新学期 操行ゼロ』(1933)という映画が読み解かれているのだが、この映画は1930年代の映画で保存状態が悪く、フィルムの半分くらいが失われているそうだ。そして、リチー氏は
失われているからいい
と言うのである。
この映画は寄宿舎で虐待されている少年たちが、大人に対して反乱を起こすという物語である。
例えば、あるシーンでは、大人が画面の左側で新聞を読んでいる。その顔は新聞に隠れて見えない。
画面中央の椅子には目隠しをされて座っている少年がいる。その右側で少女が椅子の上にのって、高いところにある金魚鉢を取ろうとしている。
次に、少女が少年の目隠しを取り、ふたりで金魚鉢を眺めながらにっこりしている。
というシーンが脈絡なく入っているそうで、リチー氏はこのシーンが大好きだったのだそうだ。物語の流れからすれば、少年は、罰として大人から目隠しをされているように感じられる。
ところが、あるときヴィゴ監督の本を読んだところ、じつはこのシーンは前後のフィルムが失われており、そこでは少女が椅子に乗る前に、スカートの中をみられないように少年に目隠しをしていたのだそうだ。
それを知って、リチー氏はがっかりしてしまうのである。無垢な少年たちの反抗の物語だったはずが、パンチラに色気づく少年の話に変わってしまった。
大体のディレクターズカット版がおもしろくない理由
こういうのが「余計な説明」というやつなのである。これは、たいていのディレクターズカット版に当てはまる話で、名作映画が、ディレクターズカット版となって再公開されると、オリジナル版より短くなっていることは絶対になくて、100%長くなっている。そして、つまらなくなっているのである。
これはリチー氏が『操行ゼロ』にがっかりしたのと同じ理由なのだが、ぼく自身、妻から「お前のnoteは説明がくどい」と言われているのはディレクターズカット版と同じだということに今気づいたので、あとは想像に任せて、ここで終わります。