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映画の未来
90年代に足しげく通っていたミニシアターがあるんだけど、すでに閉館している。シネマ1とシネマ2という2部屋あって、1のほうが席数が95席で2が63席だった。
とにかく狭かったという印象が強い。席数はいまネットで調べたんだけど、63席なら1列10席としてもたった6列しかないわけで、小会議室くらいの広さしかなかったし、画面のサイズも小会議室のプロジェクター程度だった。
それでもタランティーノの『レザボアドッグズ』を見たのもここだし、ソクーロフの『マリア』を見たのもここだったし、どちらも見終わってしばらく席を立てなかった。つまり、ぼくが映画の良さを味わう上では、このくらいの環境で十分だということである。
テレビがミニシアターを越える
先日、空港の発着ロビーでNHKの8K放送というのをやっていたのだが、堂々たるものだった。画面サイズは上記のミニシアターより大きかったし、画質も8Kということは4Kの倍だから『レザボアドッグズ』や『マリア』よりずっと上のはずだ。
つまり、いま空港のロビーにさりげなく置いてあるテレビは、サイズ面でも画質面でも、すでにミニシアターを越えていることになる。
空港のロビーだけではない。こないだゲオで50インチ4Kのチューナーレステレビが、おどろくほど低価格で売られていた。いまや家庭で、ミニシアターよりも良い条件で映画を見ることができる時代である。
もちろん、映画館には、画質に還元できないもろもろの良さがあるので、これからも映画館が廃れることはないと思いたいが、画質だけを取れば、映画館でないと困るという理由はもはやなくなってしまった。
まさかこんな時代が来るとは思わなかった。
しかし、いいことばかりではない。こんなに簡単に、自宅にいながら映画館にひけをとらない画質で映画を見られるようになったのは、それだけテクノロジーが発達したということだが、言い換えれば、映画というテクノロジーが時代遅れになったということでもある。
最先端のテクノロジーはもっと先を目指しており、映画など眼中にない。だからこそ、そのテクノロジーのおこぼれをもらって、映画はこれだけの恩恵を受けている。
そう考えれば、複雑な心境だ。
個人映画の時代
見る側だけではない、撮る側もスマホのカメラで、手軽にきれいな画質が得れらるようになっている。
SONYのミラーレスカメラα1は、アマゾンでふつうに売られているが、かつて1000万円していた映画撮影用のカメラと画質はそん色なく、これとMacBookProがあればだれでも映画をとれる時代が来た、と高城剛氏が言っていた。
そのうえでAIである。これからはカメラを適当に設定しておけばAIがプロ並みに撮ってくれるだろうし、編集もAIがプロっぽくやってくれるようになるはずだ。そうなると、個人で手軽に映画を作れるようになる。
小説なんかでも、西村京太郎サスペンスみたいなものは、AIが量産してくれる時代が来そうだが、同じことはドラマや映画でも起こりそうだ。
アートは2極化する
とはいえ、夢野久作の『ドグラマグラ』や、メルヴィルの『白鯨』みたいなものをAIがさらっとかけるようにはならないだろう。ああいったものを模倣とパターン化によって書くのは不可能だ。
これは映画でも同じで、デイビッドリンチの作品をAIが作れるようになるとは思えない。
そうなると、いずれ「AIで十分」といえるようなタイプの作品と、AIではどうにもならないタイプの作品に2極化していくのではないか。「AIが模倣できるかどうか」というのがアートを峻別する容赦ない分水嶺になっていくのではないだろうか。
これまで埋もれてきたほんとにすごい作品は「AIでは作れない」というだけで、きちんと評価されるようになるだろうし、逆に、たいしたことないのにもてはやされているような作品は「機械でも作れるよ」と言われて終わってしまうだろう。
クリエイターにとっては大変な時代だが、小説を書くくらいの手間で映画が作れるようなれば、才能のある映像作家はより簡単に世に出られるようになるだろうし、ぼく個人にとっては、総合的に考えて良い時代が巡ってきそうな気配である。