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相手を相手のままで理解する
昨日は、
これだけ情報のあふれる時代に、対面で会っている人のつまらない話をどこまで許容すればいいのだろう
ということを書いた。
疑問だけを掲げて、答えは書いていなかった。
しかし、あれを書いた後で、親しい人たちと再合流して、正直に疑問を示してそれぞれの意見を聞いていたら、やがて答えは出てしまった。今日はそれを書いておこうと思う。いつかまた迷ったときの自分のために。
キアヌのヴァイヴ
どういう風な答えが出たかというと、ぼくがあんなふうにイライラしていたのは、
知らず知らずにキアヌ・リーヴス的なヴァイブから離れていた
からだということを思い出せたのである。ぼくとしてはこれだけ書いておけば、
はい、おわり
なのだが、読んだ人はなんのことやらわからない。
ここで「キアヌのヴァイヴ」と呼んでいるものは、「彼の立ち居振る舞いに象徴されるようなヴァイブレーション」という意味で、とくに彼に限定されるわけではなくいろんな人が持っているものだが、ぼくにとっては彼に教わった部分が大きいのでこう呼んでいる。
しかし、こういう風に論理だてて説明していると、話がどんどんつまらなくなっていくような気がするのはなんでだろう(笑)
相手を相手のままで理解する
彼の有名な言葉一つを上げておこう
The simple act of paying attention can take you a long way.
ただ注意を払うだけで、とても多くのことがわかるようになる。
これである。「注意を払う」というのは、さまざまな意味に受け取ることができるが、ぼくの理解はこうだ。
人間に対して注意を払うというのは、「自分の意見」というものをいったんわきに置いておいて、「相手の考えを相手の考えのままで理解しようとこころみる」ことであり、対象の内側に入り込もうとすることだ。
これは俳優にとっては必須の能力なのだろうが、あらゆる人と人との関係にも当てはめることができるし、そして、相手を相手のままで理解しようとすることが、おおげさにいえば、
相手への愛
ということになるわけで、別に愛などという大げさな言葉を使う必要はないけど、相手を相手のままで理解しようという姿勢で目の前の相手に接していれば、それは、快さとして自然に相手に伝わる。ぼくは、そういう意味に捉えている。
「いっしょに」いく
この理解を昨日の記事の状況にあてはめてみよう。目の前の相手がなんともつまらない話をしてくるなら、その人にはそうせざるをえないなんらかの理由があるわけで、聞き手としてのぼくは、そこに注意を向けていき、(Paying attention)相手をそちらへむけてうながしていくような質問をすることはできる。
そうやって、相手のつまらなさをそのつまらなさの内側から理解しようと試みれば、やがて、つまらない話もつまらなくはなくなっていく。
実際に内側から理解するのは無理だとしても、ちょっとおもしろいというか意外な面を引き出すことくらいはできるし、そうやって引き出しされた新たな面は、ぼくをとおくまで(take a long way)つれていってくれるだけでなく、いっしょに相手もつれていってくれることになるのだ。
この「いっしょにいく」という"感じ"、連れだって理解を深めていく感じ以上に大事なものは、おそらく人生には何もない。その時間を惜しんで書物を読んでも、得られるものは、一緒に歩いて得られるものに比べれば実に貧しい。
以上は、ぼくが人の話を聞くときに、こころがけていることでもあった。しかし、感染症の情報に振り回され、戦争の騒ぎに振り回され、プライベートでは、認知症の家族に振り回されたりしているうちに、いつしか余裕がなくなっていき、知らず知らずに、いら立ちに変わっていたように思う。これが、
キアヌ・リーヴス的なヴァイブから離れていた
ということだ。昨日、親しい人たちと話していて、そういうことを思い出させてもらった。原点に返ることができたというか、これからもこういうことはありそうなので、これはこれでよかったと思える。