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人生の短さについて

マニアは数にこだわる

世の中には「マニア」と呼ばれる人たちがいるが、そういった人種は、数にこだわる傾向が強い。

切手収集マニアなら、あつめた切手の数にこだわるし、カーマニアならに乗り継いだクルマの数にこだわるし、映画マニアなら年間に何百本観ているかにこだわったりする。

なぜかというと、マニア同士のあいだでは数が力になることが多いからだろう。Jazzレコードを1000枚持っている人と10000枚持っている人がいた場合、どうしても後者の方が格上のような感じがしてしまうのである。

Jazzファン下克上計画

ぼくも同じだ。長年の映画ファンであり、すでにかなりの数を見ているので、その数をドヤっている部分があったかもしれない。

一方でJazzファンでもあるが、こちらはそれほどたくさんの演奏を聴いてない。1000枚は聴いているけど、10000枚は聴いていないので、やや肩身が狭い。そこで最近、その肩身の狭さを一気にまくり返そうという企てに取り掛かった。

時は戦国・・ではなくて、時は配信・・なので、往年のJazzファンが苦労して入手した数々のレコードは、いまではネット配信でいくらでも聴ける。

なので、Spotifyで1万枚くらいのレコードをまとめて聴きまくることで、下剋上を図ろうと考えたのだった。

しかし、その企てに着手してまだ数日しかたっていなかったある日、古代ローマの政治家だったセネカの『人生の短さについて』という本を読んでしまった。そして、自分の「下克上計画」が人生の貴重な時間を浪費するだけの、くだらない企てであるということに気づかされて、止めてしまった。

承認欲にこだわるのはバカバカしい

セネカの考えをぼくなりにわかりやすく言い換えると

名誉のために時間を費やすことくらい、バカげたことはない

ということになる。そして、ぼくがレコードを聴きまくろうとした動機も

Jazzファンにマウンティングするため・・

であり、いわば名誉のためだったのだが、そんなことに人生を費やしてしまうのは、セネカに言わせるなら、他人の奴隷になるようなものだということだ。

他人に認められるために、金銭以上に貴重な時間をホイホイ差し出してしまうには、人生はあまりに短い。なので、

たった1000枚しか聞いてないくせに・・

と他人に言われてもべつにいーではないか。そういうのを黙らせるためだけに人生を浪費するのは馬鹿げている。なので、たくさん聞くことにこだわるのはやめたのだ。

アルバム1枚との出会いでも、こころを揺り動かされることはあるし、そういう時間を過ごしたい。

映画だって同じことで、たくさん見なくても、1本の作品との出会いで濃密な時間を過ごせればそれに越したことはない。

数には説得力がある

とはいえ、マニアに限らず

世間に認められる = 数値が認められる

ことになりがちだ。偏差値だって数値だし、視聴回数だって数値である。そして数値で他人を測るすること自体は、あながち間違いともいえない。

宮本武蔵は60回以上戦って負けなかったから剣豪として名が残っているわけで、1回不敗と60回不敗では重みが異なる。数には説得力がある。

とはいえ、人生の豊かさが必ずしも数で測れないことも事実だ。

たとえば、子育てである。ぼくはやったことがないので想像になってしまうけど、子どもが東大に行ったら良い子育てで、落ちたら悪い子育てだと思っている愚かな親はいないだろう。子どもの年収で子育ての成果を測る親もいないはずだ。

それは、子どもがモノではなくていのちだからで、子育ては、いのちのぶつかり合いなので、過ごした時間の密度を数値で測ったりはできない。

いのちのぶつかり合い

いのちといのちのぶつかり合いといえば、マンガ『あしたのジョー』の

矢吹ジョー 対 力石徹

である。いきなり話が飛ぶようだが、この記事のポイントはむしろこちらにある。

最近、読み返していないので記憶があいまいなんだけど、『あしたのジョー』という作品において、力石徹戦が一つのクライマックスになっていることはまちがいないだろう。

とはいえ、ジョーと力石の戦いは世界戦ではないし、日本ランキングにすら入っていないボクサー同士の対決にすぎない。でもランキングなどという数値では測れないすごみがあって、それはホセ・メンドーサとの世界戦にも勝っているといってもいい。

客観的にいえば、メンドーサとの世界戦は、力石戦にくらべて、スピード、パワー、技術などすべての点で圧倒的に優れた戦いだったはずだ。もし力石徹が死んでおらず、メンドーサ戦をリングサイドで観戦していたならば、

「孫悟空 v.s. フリーザ」を見守る亀仙人

のようなポジションに立たされていたかもしれない。「ドラゴンボール」の読者が、天下一武道会での悟空と亀仙人の戦いを後々むなしく思い出すのと同じように、「あしたのジョー」の読者は、ジョーvs力石戦をむなしく思いだすことになっていたかもしれない。

そうならずに済んだのは、力石徹が比較を許さない場所へ行ってしまったからだが、とはいえ、ジョー本人にとっても、力石戦の重みがメンドーサ戦よりも軽いということはなかったはずで、それは他人が外側から測れるものではない。

そして、人生を充実させるものは、このような内面の充実度に基づいている。映画1本ですら本来はそういうものだ。

ぼくが最初に見た映画は、小学校6年のときの『スターウォーズ帝国の逆襲』で、腰を抜かして映画館を出れなくなったほどの衝撃を受けたけど、いま客観的に見れば、それほどの作品ではなかったかもしれない。

しかし、ぼくにとっての「帝国の逆襲」は、「ジョー vs 力石戦」のようなもので、永遠に他の映画と比べたりできない。

「ジャズレコード1万枚」などという発想をしてしまった時点で、そのことを忘れていたのだろう。生きることに対する惰性が気持ちの中に入り込んでいたのだろう。惰性に流される人生は短いのである。

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