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世の中には知らないほうがいいことがある
こんばんわ!
今日のテーマは「知らないほうがいい」ですが、世のなかにはこういうことを言ってくれる人がほとんどいないので、あえて力説してみます。
むしろ逆のことを言う人はあふれかえっている。知る権利だとか。あるいは
知は力なり
と、フランシスベーコンも言っているし、「孫子」の中にも
敵を知り、己を知れば百戦あやうからず
というのがあるけど、勝つためには知ることがとってもだいじという意味だ。あるいは、ジャーナリストは、市民には知る権利がある、みたいなことをさかんに言うし、さまざまな場面で、
真相究明が急がれる
みたいな文言は世間に飛び交う。試みにGeminiに「知ることはいいことですか」と聞いてみると
「知る」ことは、探求心の始まりです。 ぜひ、あなたの知的好奇心を満たす旅に出かけてみてください。
と答えた。さらに「探求心とはいいものですか」と聞くと
探求心は、とても素晴らしいものだと思います。なぜなら、探求心は私たちを成長させ、新しい発見や喜びをもたらしてくれるからです。
このようにもろ手を挙げて「知識マンセー」なのが現代社会のデフォルト状態だ。
だが、ぼくはあえていいたい。探求心はときとして危険なものであると。そして世の中には知ってもすこしも幸せになれないどころか、知ったせいで不幸になる情報もあるということを。
頭の隅に置いておいてほしい
これからその理由を説明しようと思うが、残念ながらはっきりとした具体例を出すことは差し控えたいので、説得力に欠けるきらいはあるだろう。なので、あなたに納得してもらえるとはおもっていない。
ただし、納得できなくても、どうか頭の隅に置いておいてほしい。そうすれば、いずれ本当に知らなくていいことに巡り合ったときに
もしかしてこれがそうかも?
と気が付くかもしれない。そしてギリギリのところで踏みとどまることができるかもしれない。
ぼくにはそんなことを言ってくれる人はいなかったので、そのことに気づいたときには、すでに半歩くらい踏み込んでしまった後だった。
あなたがそうならないことを願っています。
マンガから得た教え
もちろん一般論としては、たいていのことは知らないより知っているほうがいいのはもちろんだ。勉強しないよりはしているほうがいい。
しかし、ごく一部に例外というものがあって、知らないほうが幸せなダークな知識というものも存在するという話です。
ダークな知識などという表現をすると、それこそぜひ知りたいと感じる人もいるだろうが、たいへん失礼ながら、そういう人は、すでに心がややダークサイドに取り込まれつつあるのではないかと危惧する。
ネットが発達したせいなのか、今はそういう人が増えている気もしている。
XにもYouTubeにも、未解決事件のナゾをほじくっている人は多いし、それで飯を食っているひとがおおぜいいる
しかし、それだけ大勢の人たちが探求を続けている一方で、その副作用というか、必要以上に謎に踏み込むことの危険を教えてくれる人が皆無なのは奇妙なことだ。
ぼくがその危険を意識化できたのは、以前にも紹介したオカルトマンガ『ある建築士の忌録』の中で、建築士の「先生」がときどきそういうことを言うからなんですね。
このマンガを読んだのは知らなくていいことをいくつか知った後だったので、余計に身に沁みた。
たとえば、第1巻の168ページでは真相を知りたがる主人公に対して先生は
それを知る覚悟があるのか
と問う。
おまえ見てるだろ
あれに一番首を突っ込んでいたやつが最後どうなったかを
世のなかには知らないほうがいいってこともあるってこと
あるいは第3巻の207ページにも、真相を知りたがる主人公にたしいて先生が
だーから、知らぬが仏って言葉があんだよ
知るってことは同時に責任も生まれる……
好奇心はわかるが……危険なんだよ
と答えている。第5巻の48ページでも
俺は何も教えねえぞ
これ以上は踏み込むなよ
痛い目を見るぞ
読者の立場からすれば「教えてくれてもイイじゃんケチ」という風に思うかもしれない。
でも、ベーコン先生も孫子もGeminiですら「どんどん知りましょう」としか言わない知識マンセーな世の中で、こうきっぱりと
知らないほうがいい
と言い切れる「先生」はかなりの修羅場をくぐっているはずで、知らないでいいことをたくさん知っている人だということが察せられると思いませんか。
オカルトに限らず
以上はオカルトに限った話ではないですよ。なんでもそうです。たとえばこんな例をあげればわかりやすいかもしれない。
以下はいま思いついたたとえ話なので真に受けないでほしいんだけど、たとえばあなたの身近な人物が、じつは特殊詐欺グループのボスなのではないか、という疑惑を覚えてしまったとする。
そう思わされるような有力な証拠を偶然いくつか目にしてしまったとして、あなたは、どうしますか?
相手には、自分が気づいたことを気づかれているのか、それとも気づかれていないのか、さっぱりわからないとして。
かかわり合いになりたくないからできれば距離を置きたいだろう。しかし、ヘタに距離をとるとかえって怪しまれる。
怪しまれれば、強引に仲間に引き入れれられるかもしれないし、何らかの形で恫喝されるかもしれない。
怪しまれたくなければ、いままでどおりの付き合いを続けていくしかないけど、これまでどおりの顔をしようとしても、だんだん苦しくなってくるはずだ。
警察に通報する手もあるけど、チクったのがわかれば、相手は報復に動くだろうし、日本の警察がFBIほど完全に守ってくれるとは思えない。
いちばんいいのは、何年もかけて、すこしずつ関係性をフェードアウトすることだが、それでも完全に断つのはむりである。
そう考えると、知らぬが仏というか、知らないままでいるのが一番いいように思いませんか。まあこういったことだ。
あるいは、配偶者の浮気でも同じことで、完璧に知らないならそれは存在しないのと同じなのだから知らないほうがいいし、知った瞬間に地獄が始まる。
以上は、あくまでいま思いついた例にすぎないが、物事の真相というのはこういった感じになっていることが多いと、最近思うようになった。
知らないのが一番いい
一見して謎に見えるものは、真相を知らないままでいるのが一番いい。
なんでもそう。
JFKの暗殺の真相でも、日本航空123便の件でも、なんでも。
でも、それをよってたかってほじくりかえしているのが今のネット社会だといえる。知ることは、知らないよりもいいことだということをだれも疑わないし、なぜそうなのかについて、まともに議論されることすらない。
こういうことを言っているぼく自身が、本当のことを知りたい気持ちが人一倍強いほうである。人一倍どころではなく、そのために人生をかけてきたような面があって、いろんなものを犠牲にしてやってきた。
でも、その結果として、踏み込まないほうがいい領域に半歩くらい踏み込んだことで後悔しているので、こういうことを書いている。
最近の例
また別の例を出すけど、12日に紀州のドンファン事件の判決が下されましたよね。ぼくはあの事件を大変な関心を持って見守っていたので、判決を聞いてどっと疲れた。
これくらい疲れたのは、オウム犯13人が一斉に執行された平成30年7月以来かもしれないし、あるいはマブチモーター事件の小田島死刑囚が獄中死した平成29年の9月以来かもしれない。
なぜそんなに疲れたのかという理由はすでにいろいろ書いてきたし、個人的なことなので今回は割愛します。
それはともかく、この事件には大きなナゾが残っている。他殺であろうと事故死だろうと、どうにも腑に落ちない謎が。
それは、致死量に相当する覚せい剤をカプセルに入れて摂取しようと思えば最大30個くらい飲まないといけないのだそうが、その手口が全く明らかになっていないことだ。
この先、おそらく控訴審があって、そのあたりが争点になるのかもしれないが、ぼくが言いたいのは、この手の謎は、一介の市民にとっては
永遠に知らなくていいタイプの真実だ
ということ。
もちろん、ぼく自身が、具体的に真相を知っているわけではないし、いずれやっかいな真相がうかびあがってくるという確信があるわけでもない。わかってみればなんでもないことかもしれない。
ただ、どういう手合いのモノには近づかないほうがいいか、というわかりやすいたとえとして一番手短なものを挙げるとこれになる。
知っても幸せにならない
もし、この手口をあなたが知ることができたとして、それであなたは幸せになると思いますか。まず幸せにはならないでしょう。
しかし、最悪の場合、不幸にはなるんです。それを知ることで、人間や世間を信じられなくなるかもしれない。この手の真相は、汚水(おすい)のようなものだから、一度あなたの心に入ってきたら、その汚れは二度ととれない。
だから、興味本位で首を突っ込んでもロクなことはないんですよ。
これにかぎらず、誰が見てもどうにもなっとくできない謎が残る出来事や、怪事件というのは、それなりのダークな背景にもとづいていることが多いので、一般市民は近づかないほうがいい。
昨今は、真相究明に躍起になっている人が多いので、あえて書いてみました。世の中にはこれ以上は知らないほうがいいという一線があるのは事実なんです。
今は、納得できないかもしれないけれども、頭の隅っこに置いておいてもらえればいつか役に立つかもしれません。
以上、参考になれば幸いです。