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人がしあわせを感じるための大前提

水に顔をつけられない人がクロールを習うことはできないように、九九(くく)のできない人が統計をまなべないように、なにごとにも大前提というのがある。

まことにエラそうなことを言うようではありますが、人のこころのがしあわせを感じるためにも大前提があると思うのである。その大前提とは、自分にウソをつかないことである。ほかにもあるかもしれないが、自分にウソをついている人がほんもののしあわせをかんじられるわけがないのはまちがいない。

たとえば、ぼくは『警察24時』というテレビ番組を見るのが好きだが、なぜ好きかというとやじうま根性があるからだ。そして他人の不幸を見たいからである。

あおり運転でタイホされた男が警官の前でクダラナイ言い訳をするのを見て「こいつバカだな」と見下してせいせいしたいのだ。あるいはヒサンな交通事故を見て退屈な日常の刺激を得たいのである。ぼくは下劣なにんげんだ。しかしいくら下劣でも本当のことなのだから、事実としてうけとめなければなにも始まらない。

もしぼくが、『警察24時』をみるのは日本の治安を心配しているからだ、と言いだしたらそれはウソである。そのウソでじぶんをだましてしまったら、つまりくさいものにふたをしてしまったら、しあわせのスタートラインには永遠に立てない。

いまこの国では、一組の若いカップルの結婚について数千万人のひとびとがあれこれ言っている。そして、そのカップルにこの国で生きていけないほどのプレッシャーを与えている。なぜそれほどの関心を持つのだろうか。ひとりひとりに聞いてみると

・税金がかかっているから
・〇〇制度が気になるから
・〇〇さんの〇〇が心配だから

と言う。まるで地球温暖化をしんぱいするような口ぶりだ。しかし断言するけど、根本にあるのはぼく の『警察24時』とおなじ、やじうま根性で熱くなっているだけだ。もっともらしい理屈で自分にウソをついている。

しかしそのことを非難するつもりなどさらさらない。ぼくも、そういう人が集まっている社会で生かさせてもらっている。昨日も、やじうまな人がスーパーに陳列した商品を買ったかもしれないし、やじうまな人が舗装した道路の上を歩いたかもしれないし、やじうまな人が育てた野菜をたべたかもしれない。

ぼくはその社会の一部なのであり、非難するたちばにない。運命共同体だ。誹謗中傷で若い女子プロレスラーを自殺に追い込んだのも「どこかの悪い奴」ではなくてこの運命共同体なのであり、つまりぼくである。

そういう社会には、そういう社会にふさわしい未来がやってくるのだろう。それがどういう未来なのかは知らないが、たとえどういう未来がやってきたとしても「なるほど、あの社会の一員なのだからこういう未来がやってきてもしかたがないな」といまは思える。

そうあきらめがつくようになっただけでも意味のあるできごとだった。映画でもちょっと見て気分を変えてから寝ます。


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