亡くなった人は一定期間を経て永遠の人になる
夏目漱石は、ぼくが生まれたときにはすでに亡くなっていた。プラトンも、モーツァルトも亡くなっていた。だが、ぼくは、かれらの生死に関係なく、その作品を楽しむことができる。
しかし、同時代を生きていたアーティストが亡くなると、しばらく作品を自然に受け入れられなくなってしまう。これはぼくだけだろうか?ほかの人もあるのだろうか?
昨年は、全世界的なパンデミックで、亡くなった有名人も多い。日本で真っ先に思い浮かぶのは志村けんさんだが、亡くなってしばらくは、YouTubeで志村さんのギャグをみてもあまり笑えなかった。
さらにこたえたのは、ジャズサックス奏者のリー・コニッツが亡くなったときだった。昨年4月のNY。好きなミュージシャンで、それまではしょっちゅうアルバムを聞いていたのだが、死の一報に接してから最近まで、まったく聞く気になれなかった。
学生のころに死んだマイルス・デイビスなら楽しんで聞けるのに、なぜかリー・コニッツは聞けなくなってしまったのである。
似たようなことはパンデミック前の2019年にもあった。漫画家の吾妻ひでお先生が亡くなったのだが、それから今年の3月までの1年半ほど、彼のマンガを手に取る気になれなかった。
吾妻先生のばあいは、生活圏が近かったのも大きいだろう。おなじ私鉄沿線に住んでいたし、ご自身も「所沢のホテルで漫画賞の選考会に出た」などとツイートしていた。先生の自費出版マンガも購読していたので、近所にいる感覚があった。しかし、亡くなってしまうと、急に手の届かない世界に行ってしまったようなヘンな感じになり、これまでおもしろかった作品を読んでもなんだか笑えない。
どうやら、生きていたアーティストが亡くなると、ぼくの中ではしばらく喪中期間のようなものが生まれてしまうらしい。生きているわけではないが、かんぜんに死んでいるとも思えないような、うまく距離感をとれない時期がつづく。
だが、あるていどの期間を過ぎると、吾妻先生も、リー・コニッツも、漱石やモーツァルトとおなじくとおい世界にいる感じになってきて、ぼくはまた平気でその作品に接することができるようになる。
さいきん、チック・コリアも亡くなったが、まだかれのアルバムを聞く気になれない。でも、来年になればまた聴けるようになるのだろう。