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ロボコップはなぜさりげない会話ができないか

みなさん、こんばんは~。

いきなり私事ですが、今週は胃痛ウイークでした。検査ウイークでもありました。

ストレス

先週から胃痛が止まらず、寝ることもままならない日々が続いたので、たまらず胃カメラ検査ということになった。

ちなみに定期検診は3月にやったばかりなので、そんなに急変しているとも思えない。でも、万一ということもあるので、最悪の場合は、入院やら手術やらも想定したうえで検査に臨んだ。

ただし、結果は異常なしで、ストレス性の胃炎だった可能性が高い。過去1か月にわたって認知症の親に向かい合っていたので、それが胃にきたのだろう。ほかに、原因は思い当たらない。

医師からは、

過去1か月間で極度のストレスを感じたことはありませんか?

と聞かれたので、

はい、ありました

と素直に答えた僕である。

それにしても、1か月間、顔を合わせていただけで、胃カメラをのまなければならなくなったわけだから、認知症にかぎらず、人間関係のストレスというのはすごいものだ。

世間では、職場の人間関係で苦しんでいる人がさぞ多いことだろう。それがもとで体を壊す人もけっこういるのだろう。余計なお世話ですが、体を壊すほど我慢して割の合うものじゃないと個人的には思いました。

どうするかは本人次第だが、ぼくは、今回の失敗に鑑みて、今後は帰省の時間を短くすることにしました。さて、そんなくだらない体験を通じて、今回感じたことを2点書いておきます。

今回感じたことその1

さて、メインは2つ目なので、1つ目は簡単に書くけど、

胃が痛くなるのはぼくの勝手

ということ。

同じ状況に陥っても、うまいことストレスを受けながして、平気でいられる人もいるだろうし、それが理想だと思う。

ぼくもうまいこと受け流そうとしたけど、この始末である。これを親のせいのするのは簡単だが、結局のところは、自分に人間力が足らないということにつきる。

これは、職場の人間関係に悩んでいる人も同じことで、相手が悪いのは事実だと思うんだけど、それでも最終的には自分の問題だ。

いきなりはむりでも、認知症に振り回されるくらいで胃が痛くなったりしないような人間に、いずれはなりたいなあと思いました。

今回感じたことその2

今回、胃痛を通じて感じたもう一つのこと。それは世のなかにはそもそも「純会話」というものはあまりないということ。これが今日のメインです。

純会話の「純」とは、純文学の「純」であり純喫茶の「純」である。ピュアということ。ピュアな会話というのは世の中にはあまりないことに気づいた。また、純会話は多すぎてもよくない。それはSNSをみればわかる。

胃痛になってしばらくはコーヒーすら飲めなかったのだが、それで改めて気づいたのは、世の中は、なにかというと「食」だということ。これを痛感した。

人に会うと、なんだかんだでお茶をするとか食事に行くことになる。映画を観ていても、アクションシーン、ラブシーンとならんで多いのは食事のシーンだ。

なんでそうなるかというと、お腹を満たすためというより、会話をするためである。

映画は、ほとんどの場面がセリフのやり取りで成り立っているわけだけど、ただ面と向かって会話だけを進めようとすれば、会議か、面談か、お悩み相談みたいになってしまう。

日常会話 ≠ 純会話

純会話の対義語を、かりに通俗会話と呼ぶならば、せめてコーヒーくらいはテーブルに載っていないとさりげない通俗会話を演出できない・・ということに、コーヒーすら飲めなくなってあらためて気づいたのだった。

食事でなくてもよくて、一緒に歩きながらとか、ブランコに揺られながらとか、車で移動しながらとか、なんでもいいけど、なにかをしながらでなければ、通俗会話は成り立たない。

しかし、当たり前のように胃が働いているあいだは、こういうことをあまり考えたことがなかったですね。

劇場は異空間

でも、演劇なんかだと、俳優さん同士が、ひたすら熱く純会話しているシーンがあるでしょう。漫才なんかも、ひたすらマイクに向かっておもしろい純会話を続けているわけだが、この手の純会話が成り立つのは、ステージの上の虚構だと感じる。

「男はつらいよ」の寅さんだって、食卓を囲みながら、あるいは酒を飲みながら、さりげなく通俗会話する。そのはずみで喧嘩をして、家を出ていったりするのだが、まずは食卓を囲まなければ通俗会話ははじまらない。

「釣りバカ日誌」だって、さあ釣りに行こう!という動きの中で通俗会話がはじまる。

寅さんとおいちゃんが、あるいはハマちゃんととスーさんが互いに向き合って、純会話をしたらおかしいでしょう。これはステージの上でしか成り立たないとあらためて思わされたし、余談になるけど、ぼくがお芝居をあまり得意ではなく、映画が好きなのは、このあたりの

純粋性と通俗性の演出のちがい

に大元があるのだろうなあと思わされた。

移動のありがたみ

そう思ってみると、ロードムービーというジャンルが映画界で重宝される理由もよくわかる。

クルマに乗っていると、つぎつぎに風景も変わるし、おたがいに向き合わなくても、さりげない通俗会話が成り立ちやすい。

「男はつらいよ」だって一種のロードムービーだけど、旅先で腰が落ち着いてないからこそ、さりげない会話が成り立つのだろう。

このように日常のさりげないコミュニケーション=通俗会話を成立させるには、運転とか食事とか、言語以外のなにかが必要であり、胃が痛くなると、その大きな部分が失われてしまったのだった。

ロボコップはなぜさりげない会話ができないか

たとえば、ロボコップなんかそもそも食事をしないし、コーヒーも飲まないのでさりげないコミュニケーションも成り立たない。

これが記事タイトルの答えなんだけど、このことは、もしかするとAIとの付き合いかたを考える上でもだいじかもしれない。AIはコーヒーを飲まないですからね。

あるいはそもそもSNSのやり取りを考える上でも大事かもしれない。みんながなにかを食べながらSNSをやっていたら、炎上なんかないはずだ。

SNSは、日常に溶け込んでいるように見えつつ、事実上は純会話になっているところが厄介で、そのあたりがさまざまなトラブルの源になっている気がする。

と、ここまで考えてみたところで、ロボコップが旅先でさりげない会話をやっているコントがあったらおもしろいんじゃないかなあ・・などと思いつつ、それにしても、今週は胃が痛いばかりで何も考えていなかったので、

今週のnoteはいよいよお休みだな・・

と思っていたんですけど、純会話というコンセプトを思いついた時点で「いける」と思いまして、なんとかここまで来ました。いやあ、なんとかなりましたね~。

それではまた来週!

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