なにがいちばんだいじか
という現代人の価値観の根本を突き詰めていくと、結局は「だいじなものがだいじなのだ」というところに行きついてしまう。
西洋哲学のすごいところは、この大事なものを「存在」の概念として、極めていったところであり、その挙句に「実存」というところにたどり着いたところだ。
「実存・・・」って、カンタンに書いちゃってるけど、つきつめればなんだかわからないけど、「一番だいじなもの」だと言っていいだろう。そして、ぼくは
とおもっているのだが、これは、よくよく考えてみれば、江戸時代の藩士が
ということ変わらないことに気づいた。
大事なものが大事
180度異なっているようで実はつきつめれば同じであって、結局のところ「もっとも大事な存在が大事なのだ」というところにいきついてしまうのである。
では、
と問われると、昔はそれが「神」だと言われていた時代もあったし、「血縁である」と言われていた時期もあるし、「国家」だと言われていた時期もあったし、「お金」だと言われていた時期もあったし、ここしばらく、それは
と言われるようになっているけど、僕の考えでは、「神が大事」も、「お金が大事」もたいして変わらない。
ぼく自身は「時間が大事」だと思っているんだけど、その理由を書こうといろいろ考えてみたところ、時代時代によって
が異なっているというだけなのである。これからの時代は、おそらくデジタルデータだ。
時代の最先端を行く人々は、デジタル情報と価値をいかに結び付けるかという点に腐心しているけど、これは実存の概念を更新しようとしているのだろう。つまり、
から
を越えて
の時代へと移りつつある。
いずれにせよ、
なのであり、やがてデジタルデータが神に取って代わる日も近いのだろうが、それがさらに更新されて、また次の概念にとってかわり、やがてその先に(いつになるやらわからないが)「すべての生命が大事」という時代に至るのではないか。
「最も信じているもののために使う生命」と書いたがこれは
と言っているのと同じだ。
大事な時間を無駄遣いする
ぼくは、「つまらない話を聞いている時間はムダだ」と思うほうである。しかし、自分ひとりの時間をなににつかっているかというと、今みたいにチューハイを飲んでボーっとしていたりするので、はたから見ればムダな時間であり、これは「藩が大事」の代わりに「個人が大事」と思っているようなことだ。
以上をまとめて言うなら、みな、なにかしら「これが一番だいじ」というもののために自分の命を使いたいと願って生きているのだが、それが時代によって神だったり、国だったり、藩だったり、お金だったり、個人だったりし、それがこれからデジタルデータになる。
そこのところを突き詰めなければ、お金の希少性や、時間の希少性の問題はたぶんわからないのではないか。