沈む夕陽はあんたが見てくれ
1986年のハレー彗星
ハレー彗星が前回地球に接近したのは、1986年4月だったそうで、次回地球に接近するのは
なのだそうだ。1986年のことははっきりとおぼえていないけど、生意気ざかりの高校生だったので、見たいとも思わなかったような気がする。
そして次にこのハレー彗星が地球に接近するときには、ぼくはこの星にはいないだろう。しかし、仮にそういう機会に恵まれたとしても、やっぱり見ないと思うのである。
しかし、50代の自分がハレー彗星を見ようと思わないのは、生意気盛りの高校生が見ないのとは意味がちがう。そして、いまなぜ自分があえてハレー彗星を見ようと思わないのか、その気持ちをひも解いていけば、自分の生き方や考え方の根本から、そもそもなぜこんなnoteを書いているのかという理由まですべてと重なってくる。
なぜハレー彗星を見ないのか
なぜ今ハレー彗星を見ないのか?理由は
からである。
世界中でいろんな人がしっかり見てくれるので、ぼくごときが見なくても、人類が大切なことを見落とすなどということはないだろう、と思っているので、安心してまかせている。
ハレー彗星を見にいく多くの人類に対して、
と思っているから見ないのだ。そのかわりに別のところを見ている。世の中がハレーのことで大騒ぎしている間に、べつのところでべつな何かが起こるかもしれないから。
もし何かがおこるなら、それは多くの人たちがハレーに夢中になっているスキを突いてあらわれるのだから、警備が手薄だ。だからそちらを見張っているのである。
こうして、ぼくが見ているところ、ぼくが関心を寄せているモノ、ぼくが存在している場所はいつも
である。そういう気分で生きているからハレーを見ない。
警備員根性
これはやや警備員的な思考かもしれない。
かつて警備員をやっていたのだが、ビル全体を警備するときに、社員が多く居残っているフロアにどろぼうが入るということはないので、そのフロアは居残りの社員さんたちに
とおもっておけばよくて、むしろ警備員は、人気のなくなった別のフロアを警戒しなければならない。ぼくの人生は、おおむねそういう気分なのだ。
別なたとえでいうなら、豪華客船太平洋クルーズみたいなものかもしれない。そういう旅の途中では、水平線に夕日が沈むころ、乗客は皆デッキに出て夕陽を眺めるだろう。
でも、警備員のしごとは、みんなが夕日を眺めているいるあいだに、客室にコソ泥が入ってこないか警戒することにある。だから乗客たちに
といって客室に降りていく。こういう気分で生きているので、
とおもっているわけで、だから見にいかない。
ハレー彗星にかぎらない。たくさんの人が見ていてくれるような場所は、その人たちに
といつも思っている。
なのである。実を言うといまは
と思っている。
ぼくが一番ウクライナのことを気にしていたのは、一昨年(2021年)の2月つまり、侵攻のちょうど1年前と、同じく2021年の11月から12月にかけて。つまり、ゼレンスキー政権が東部親露派にドローン攻撃を仕掛けた時期だった。
前者の時は「プーチンがバイデンを試している」みたいなツイートをしているし、後者の時にはかなりあわててnoteを書いた。この時期は、ウクライナ問題も「警備が手薄」だったので、
とは言えなかった。なので仕方なく気にしていただけであり、警備員根性でやっていたにすぎない。
地球号の警備員
今関心を持っているフィールドもすべて、
である。ほんとは何も気にしないでホラー映画でも見ていたいのだが、人手が足りてないところでなにかが起こりそうな気がしてくると、放っておくこともできないので「やむをえず」ウォッチしている。
そりゃあ、人手の足りているところのほうが、注目も集めやすいし、金になるのは知っているけど、
と思っているところはあるのだ。ワールドカップもオリンピックもウクライナも世界が注視しているので、すでに人手は足りており、アタマがよくてカネ儲けの得意な人たちが競い合っているので、わざわざぼくごときが出ていっても役には立たない。
勘違いしてもらいたくないが、自分を特別視しているのではない。警備員はだれにでもやれる単純労働であり、唯一必要なのは、
というだけだ。
ハレー彗星を見にいく人たちが、いわば「地球という豪華客船における乗客」だとすれば、ぼくはみながデッキに出ていったあとで客室に降りていく「地球号の警備員」的な気分で生きているわけだ。
本音では、警備員控室でホラー映画でも見ていたいのだが、コソ泥が心配なのでやむなく客室に降りていく。このnoteもそういう気分で書いているので「世紀の瞬間」みたいなものを話題にすることはできない。ここに書くことは多かれ少なかれ、乗客が夕陽を見にいった後の客室の状況みたいなことだ。
なぜ警備員なのか?
そして、なぜぼくが地球号の乗客にならず、船長にも一等航海士にもならず、警備員になってしまっているかというと
としか言えない。子供の頃からだが、みんながあらそっている椅子よりも、空いている椅子が気になってしかたがないので、そちらを注意しているだけであり、あまのじゃくではない。
あるいは、メッシがPKを蹴るときにも「メッシを見ている観客」のほうを見ているのが警備員なのだが、だれかが代わりに見てくれるなら、本音では
と言ってメッシを見たいところだ。しかし、いつになっても人手が足りないのでやむをえず警備員を続けている。このnoteもそういう警備員の日記のようなものだと言える。
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