世間を生きるというのはたいへんなことだな
世間をうごきまわっていると、ときどき理解が不可能なタイプの人に出くわすことがある。こないだも炎天下にマクスを外して街をあるいていたら、
と力説しながら歩いている女性に出くわした。こういう人とは話が通じない。
「同調圧力があるから外したくても外せない」人や、または「感染拡大防止の観点から外すべきでない」と言い張っている人なら、まだ話し合いの余地がある。
しかし「他人にイヤな思いをさせたくないから」というのははあまりにばくせんとしており、そもそも「どういう場合に他人がイヤな思いをするのか」という点がきちんと考えられていない。
人は、感染のリスクにさらされれば「イヤな思いをする」わけだが、熱中症のリスクにさらされても「イヤな思いをする」わけであり、また同調圧力にさらされても「イヤな思いをする」。
どのイヤな思いを最優先で解消すべきかは、感染状況や、場所(屋外/室内)や、気温などによって刻々と変化する。
ちなみにその日は、感染のおさまっている状況で、屋外で、気温の高い状況だったので、まずは熱中症対策を優先すべきだった。しかし、そういう話ではないのである。
たぶん、その人にとってのイヤな思いとは、感染のリスクでも、熱中症のリスクでも、同調圧力からくるストレスですらなく、彼女にとっては「同調圧力を乱すこと」=「他人に嫌な思いをさせること」という図式だったのではないか。
つまり「社会を成立させるためには同調圧力を維持しなければならない」という「日本教」に洗脳されてしまっている状態なので、話し合いにもなににもならない。
でもこういう人たちがたくさんいるのが、世間ってものである。同じ日本語を話しているようでも、話の通じない人のほうが多い。
ところで、ぼくはいま家族が検査入院している。今のご時世では病室に気軽に立ち寄ることもできず、ひさしぶりに「家族が病院に入って、どうにもならない」という体験を思い出しているところだ。
この手の経験したことのない人はほとんどいないだろうが、ちょっとした入院でもある程度は心配してしまうわけで、これが生死を分ける手術の最中ということになれば、のんきにこんなものを書いている余裕などなくなる。
ここしばらくそういう雰囲気を忘れてのんきに生きていたけど、思えば、僕の人生は、ここ20年ほどの間、おおげさにいえばこういうことの連続だった。
そのことを忘れてうかうかと暮らしていたわけだが、それにしても話の通じない世間で暮らしていくということは、いつ危険が降りかかってくるかもしれないということなわけで、ある意味、死と隣り合わせで暮らすことと大差ないんなとあらためて思い知らされる。
ぼく自身は、かなり隠れ家的に生きているのでなんとでもなるが、世間に出ていく職業の人はさぞ大変な思いをしていることだろう。