夢を見るようなつもりで映画を見ている
このnoteではなんども書いているのだが、ぼくは同じ映画をくりかえし見るクセがある。10回も20回も見る。これを読んでいる人の中にもそういう人はいると思うんだけど、一方で、新作を次々に見ていく方が好きだという人もいる。たぶん、両者は、映画に対する接し方がちょっとちがうような気がするので、それがなんなのか考えてみた。
ぼくが同じ作品をくりかえし見る理由の1つは、ナマケモノだからである。あたらしい作品を見るには、いちいち話のながれや伏線などを追っていかなければならないので、脳のリソースを消費する。ちょっとぼんやりしているだけで重要なショットを見逃して、話の展開がわからなくなる。そういうのがしんどい。
しかし、何度も見ている作品ならばその心配はなく、お酒を呑みながらぼんやり見ても迷子になることはない。そのラクさが、ついおなじ作品を見てしまう理由なのだろう。
ただし、もうひとつの理由として、「他人の夢を見るようなつもりで映画を見ている」という点が大きいと思う。昔、ルイスブニュエル監督と画家のサルバドール・ダリが合作した『アンダルシアの犬』という映画があった。夢のような脈絡のないイメージの連続でできあがった作品だったが、ああいう感じで映像の展開を楽しんでいる。だから、同じ作品をくりかえし見るのだろう。
とはいえ、ひたすらイメージの羅列を見せられるのはツラい。『アンダルシアの犬』も上映時間は17分しかないが、けっこう長く感じる。あれ以上続けられると、飽きるだろうなという感じはした。ということは、いくら夢のような映画でも、最低限のストーリーは必要だ。
『2001年宇宙の旅』のスタンリー・キューブリック監督は、ストーリーテラーというより、イメージの展開を重視している作家だと思えるが、意外なことにかれ自身は「映画でだいじなのは良いストーリーだ」と言っている。
そうはいっても、『2001年宇宙の旅』は、人類文明の誕生から、宇宙時代までの変遷を映像でコラージュしたような作品で、ドラマとよべるようなもりあがりははなかった。そういう映画を撮る人が「ストーリーが大事だ」というのは不思議な感じがするが、たぶん、彼は物語のドラマチックな展開を求めているというより、作品の軸になる良いストーリーがないとイメージを展開するのがむずかしいという意味で言っているのではないかと思う。
ここでちょっと飛躍するけど、「他人の夢の話をきいてもおもしろくない」というのがあるじゃないですか。自分の見た夢にはものすごーく意味を感じるんだけど、それを他人にしゃべってもつまらなそうな顔をされる。このあたりに秘密があるのではないかと思う。自分の見た夢には、イメージの表面に出てこない深層心理的な意味のながれがあるが、それは他人には伝わらない。
映画は、他人の見た夢みたいなものなので、あるていどの意味のつながりを示して観客をサポートしないと、見ている方は退屈してしまうのだろう。ただし、かならずしもドラマチックなストーリーが必須だとはかぎらない。
ぼくは『地獄の黙示録』という映画がスキででおそらく20回くらいは見ているが、ストーリーは単純なものだ。「青年将校が、暗殺の密命を受けて川をさかのぼっていく」というだけである。イメージの展開をおもしろがって見ているのだが、それにしても、ストーリーの軸があるからこそ、飽きずに見られるのだろう。映画ってフシギだなあ。