顔をおおう被告
こどものころとても不思議だったことがある。殺人事件などで連行されていく被告が、報道陣のまえを通過するときに手で顔をおおうことだ。アタマからジャンバーをかぶる場合もある。
すでに被告の顔写真は全国に広まっているのに、いまさらなぜあんなことをするのかがわからなかった。でも、いまならわかる。あれは、本人の想像力の問題だ。
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舞台に出るタレントさんがよく「緊張する」と言う。しかし、舞台の観客は数百人から多くて数万人である。
一方、テレビに出演したら、数千万人に見つめられる。こちらのほうがもっと緊張するかといったらそうでもないらしい。
それは数千万人の視線を「リアルに」実感できないからだろう。スタジオで実感できるのは、カメラとスタッフの視線のみである。
だからこそ、「欽ちゃんはテレビではぼくに笑いかけてくれるけど、目の前に来たらまるでそっけない」のである。
こちらは、いつも見ているから、ともだちみたいな気安さで寄っていくが、当の欽ちゃんは、毎週ぼくが見ていることを、リアルに実感していない。つまり、ぼくにとって欽ちゃんは存在しているが、欽ちゃんにとってぼくは存在していない。知らない人にニコニコ近づいてこられたらコワいに決まっている。
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被告もおなじだ。全国でおそらく一億人以上のひとたちが、彼の顔写真を見、やったことを知っており、「ひでえなこいつは、サイアクだ」と思っている。しかし彼はそのことをリアルに感じとっていない。
だからこそ、たかだか数十人の報道陣に対して「顔をおおう」という行動に出られる。「自分はなにかを隠すことができる」という幻想の中で生きていられる。じっさいは、すでに丸裸である。本人がそれを実感していないだけだ。
かれが1億人の視線をリアルに実感すればたぶん生きていられないだろう。しかし、実感できないものは、存在していないのと同じだ。ぼくが欽ちゃんにとって存在していないように、ぼくの視線は被告にとっては存在していない。そこに彼の救いがある。知らぬが仏である。彼が顔をおおうということは、まだ人として生きているということだ。