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ぼくは「失うもののない人」だ
最近は大きな事件が起こると、犯人の特徴として「失うもののない人」という表現が使われることがある。ぼく自身そういう表現を何度か使ったおぼえがある。
今日もネット記事を読んでいてこの言葉にであったんだけど、そこでふと気づいたのである。そういえば「自分は失うもののない人だった・・」と。
富や名声などというものとは無縁だし、社会的地位もゼロである。
問題を起こしても、「辞職」とか「辞任」とか「降板」などという形に追い込まれるポジションは持っていない。しいて言うならアマゾンプライム会員を退会しなければならないくらいである。
積み上げてきた信用もない。
「自分がいなくなったらとたんに生活に困る人」というのもいない。親兄弟や家族はいるけど、ぼくがいなくなっても経済的には困らないし、ぼくがいないと立ち行かない仕事というものもない。
そんなわけで、今日は自分のことを知るためにウィキペディアで「無敵の人」や「弱者男性」を検索し、そこにリンクされている参考文献を15本くらい読んでみたわけだが、ひとつわかったのは
ぼくには弱者男性としての自覚が足りない
ということである。
まず、ぼくは「失うもののない人」ではあるが、社会に対して怒りは抱いていない。
むしろ逆で、組織でそれなりのポストについていたころは、めざわりな人やストレスになる人間関係があったけど、失うもののない人になったおかげで、そういったストレスから解放された。
失うものがないというのは、じつに自由だ。
地位や名誉や富が得られるとこの自由が失われてしまうわけで、ぼくが失いたくないものをあえて挙げるなら、それはこのふわふわした「自由」だといえるだろう。考えようによっては「犯罪によって失うものがものすごくデカい」ともいえるのである。
自由民主党が自由を失ったら民主党になってしまうくらいだから、自由はむちゃくちゃデカい。
自由を得るには経済的自立がいるだろうなどと思う人もいるだろうが、そんなたいしたことではなくて、みんな転ばぬ先の杖にしがみついているだけだ。
とはいえ、いまは簡単そうに書いているけど、最初にキャリアを捨てたときにはものすごい恐怖感があったので、その気持ちもわかる。うん、わかる。
ところで、それなりのポストに収まっていた頃は、うまくいかないことがあると上司のせいにしたり、同僚のせいにしたりしていた。
しかし仕事を辞めた時に
この先、ホームレスになって行き倒れるとしても、それは社会のせいでも日本のせいでも世界のせいでもない。自分のバカな決断のせいなんだな
と心底思えた。いま味わっている自由の本質はそれだといえる。
というわけで、あくまでぼくの実感からすれば、失うものがないことが怒りに直結するということはないはずだ。
また、弱者の属性として、教育だとか、文化的貧困だとか、孤立だとかが語られているがそれもイマイチぴんと来ない。
そういう現場を知らないわけではなくて、父親を見ていると「これこそ文化的貧困だな」と思う。彼の親戚には宗教に入れあげて家屋敷を売り払ってしまった人がいるし、株で退職金を全部溶かした人もいる。
一方、母方の親族にはみっともないアル中として地元で有名だった人もいるのだが、だからといって、ぼくが怒りをためなければならないということもないのである。
ところで、これから事件を起こそうと思っている人にはその前に警備員になることをおすすめする。すぐに採用されるし、座っているだけでお金をもらえる。
それで不満をかんじるならそれこそ不自由な話だし、その不自由さを想像するだけで同情を禁じ得ない。