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なぜ「ピンクのパンツ」でいけないのか?

かなり長い間、「自分」というのはパンツみたいなものだと思って生きてきた。

パンツは履いているかはいていないかといわれれば、つねにはいているものだ。しかし、わざわざそれをアピールする必要もないし、最低限の機能をはたしていれば、それ以上こだわる必要もないし、それでいいと思っていた。

つまり「自分」にこだわっていなかった。いまでも、自分というのは、パンツみたいなものだという気持ちは残っている。

もしかすると、どういうパンツをはいているかに、その人自身の「自分観」みたいなものが出るのかもしれない。。。出ないかもしれないけど。

ぼく自身は、数年前にイオンの閉店セールで20枚ほどまとめ買いしたピンク色のトランクスを毎日順番に履いている。

閉店セールではいろんなものを安売りしていくわけだけど、売れ筋のモノから先に消えていく。

閉店日が近づくにつれ、店内はしだいに売れ残ったイマイチな商品ばかりになってくる。そうなると、それらをさらに安くしていく。

最終日になると、「紳士用トランクス」コーナーはピンク色ばかりが残っていた。ブルーやストライプやグレーやチェックなどという無難なタイプは、姿を消した。

そこでぼくはそのピンク色のトランクスを根こそぎレジにもっていき、全部買ったのである。何円だったかわすれたけど2000円を出しておつりが来たおぼえがある。恐ろしく安かった。

ただし、モノはイイのだ。何年も持ちそうなよさげなパンツだった。それらの売れ残った大量のピンクのトランクスは、

ピンクである

という以外になんの欠点もないいい商品だった。

しかし、世の男性は

ピンクである

というだけで誰も買わない。

しかしパンツは人に見せるものではない。ぼくが1年365日24時間ピンクのトランクスをはいていることなどだれにもわからないわけで、ならば「ピンク」でなぜいけないのだろう。

ちなみにこの「ピンク」のところは、ヒョウ柄でも、ラメでもゴールドでもなんでもいい。世の男性は、いくら品物がよくても、破格の値引をされていても

ヒョウ柄はちょっと・・

となるので、そのばあいは、ヒョウ柄のパンツをぜんぶレジにもっていく。

つまり、ぼくのパンツがピンクなのは、自分の好みではなく、そのイオンでパンツを買ったすべての人々のチョイスの結果だといえる。

「なぜピンクのパンツなんですか?」と聞かれても、人と変わったことをしたいとか、世間の逆に張りたいとか、ウケを狙っているなどということはなく

そこにピンクのパンツがあるからだ

としか答えようがない。ピンクにこだわっているのは世間のみなさまの方だ。

これを読んでいる人の中に、リアルに出会う人が何人くらいいるのか知らないけど、もし出会うことがあったら、

しょせんピンクのパンツ野郎だからな

と思ってもらっていい。「バイデン政権の背後にいる巨大金融資本がどうのこうの」と言ったとしても、しょせんはピンクのパンツ野郎の言っていることである。

そういう想像をしておもしろいかどうかはわからないけど、すくなくとも事実だし、そう思っていれば議論で押されることはまずないだろう。つまりあなたが優位に立てる。

あるいは、初対面でもあいさつがわりに「今日もピンクのトランクスですか?」と聞いてくれれば

今日だけでなく、昨日も、明日も、来年のクリスマスも、勤労感謝の日もピンクのトランクスです

と答えましょう。

さて、そういうわけでぼくは「ありのままの自分」を、ピンクの紳士用パンツみたいなものだとおもって生きてきたわけだが

そろそろもうちょっと成長しようかな

と最近思っている。

じぶんにとってはパンツの色なんかどうでもいいというのはこれまでどおりなのだが、これまでは周囲の人に対しても

地球人類にとって、パンツの色なんかささいなことだ

という態度を押し付けていたような気がする。

しかし、もうちょっと気を使うというのか、人間性に余裕を持たせるというのか、パンツの色を気にしている人の気持ちを尊重できるような人間になりたくなってきた。

ピンクのパンツみたいな人間に無意識にプレッシャー受け、不快感を抱き、批判的になる人たちもいる。これまではそういう人たちに正面から

オラオラピンクのパンツだよ~

というかんじでやってきていたのだが、もうちょっとしんぼうづよく人の話を聞き、深いところまで考えてから答えるを癖をなんとかして身に着けたいものだ。

なぜそう思うようになったのかというと、唐突だけど、ネットでキアヌ・リーヴスの真摯な言動をいろいろと見ていて

ピンクのパンツみたいな軽率さを反省させられた

というのが一番大きい。

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