人の運命がいかに〇ソかということについて
子どもの頃、かなり釣りに熱中した時期がある。
小学校の4年生の春から6年生の夏くらいまで。釣りのことしか考えていなかった。しかし、いまでは釣りには全く興味がないし、もう一度やりたいとも思わない。
釣りをするよりも、釣りを見ているほうがいい。
こう書くと、「釣り」よりも「人」が好きなんだなと誤解されてしまいそうだが、残念ながらそうではない。ぼくは「釣る」という行為よりも、「見る」という状態のほうが好きなのだ。
釣るというのは、海や川や池から獲物を得るというアクションだ。ハンティングである。ぼくは世界に対して働きかけたいという気持ちがまるでない。獲物もいらない。
得たいのは情報である。見て、知って、考えたい。それだけだ。
ザ・傍観者
なのである。
それがイイだの悪いだの言われても知ったことではない。
食べるのが好きな人。賭け事が好きな人。旅行するのが好きな人。闘うのが好きな人。クルマが好きな人。贅沢するのが好きな人。異性を追いかけるのが好きな人。
いろいろいるように、ひたすら見て知って考えたい人間もいるとしか言えない。突き詰めて言えば、それだけで満足だ。「表現」したいとは思わない。
釣りが海や川に対する働きかけであるように、表現するというのは社会に対する働きかけでしょう。ぼくにはそういう欲求がゼロではないが、ほとんどない。
だから、小学校の6年の夏に映画を見るようになってから、釣りたいという気持ちは消えた。あとは、ずーっと見て知って考えるだけの人生だ。
チンタラと表現などする暇があったら、もっと先に行きたい。人にしらせるひまがあったら、一人でジャングルの奥まで見にいきたいのである。
映画は、暗闇の中で、ただ見て、考えるだけで済むので、ぼくのようなやつにはじつに向いている。
野球を見に行けば応援しなければならない。コンサートに行っても芝居を観に行ってもリアクションが必要になる。つーか表現したいから行くんだろうし、参加したくて、表現したくて、そういう場所に行くのだろう。
文章なんか、書きたい奴が書けばいいのだ。
下手でも歌いたい人がいて、うまくても静かに座っていたい人がいるように、文章は書きたい奴が書けばいい。
ぼくは書くことに興味がない。長いこと「翻訳」をやっていたのはそのためだ。考えることは好きだが、表現したいと思わないので他人の表現を加工することで食い扶持を稼いでいた。
そういう「ザ・傍観者」が、ある作家を10年ほど観察してきた。さて、ここからが本題です。
その作家の分析力と視野の広さと柔軟性を尊敬していたのだが、どうしてもわからないことがあったのでじっと見ていた。その「わからないこと」とは、
である。あらゆる情報発信の根底に、ものすごい危機意識がある。その根っこにあるのはいったいなんなのだろう?それを知りたくてひたすら見ていた。
1番の疑いは「ビジネス危機感」ではないかということだった。世間には、食っていくためにやたらと危機感をあおる連中がいる。あの手合いかもしれない。
たぶん、そうなのだろうとなかば結論しかけたこともあったが、それでも腑に落ちない点が残ったので、なおも観察を続けた。
そして、最終的に、どうやらこの人は「純粋な危機意識」とでも呼べるものに駆られているとしか思えなくなった。
それ以上のことはいくら観察してもわからない。だから、行動するしかなかった。ご本人に近づいて、直接やり合う以外なかった。それまでに10年かかった。
その結果、いまではぼくもその危機意識を共有するに至っている。
本当は、表現というようなめんどくさいことはやりたくないのだ。ただ見ていたいのだが、今ではそうもいかなくなってしまった。
とはいえ、書いてどうなるというものでもないのはわかっている。人は人に見合った運命をたどるだけだ。愚かならば、愚かな運命をたどるしかない。
いくらおもしろい冗談を言ったり、明るい未来を描いたりしても、それで愚かな人の運命が賢い運命に変わったりはしない。
いまぼくは、たぶん運命に対して悪態をつきたいのだろう。お付き合いいただきどーも恐縮です。
世の中には表現したい人、目立ちたい人、参加したい人、パフォーマンスしたい人、認めてほしい人たちがウジャウジャいる。腐るほどいる。
にもかかわらず、その人たちはスタジアムに行ったり、劇場に行ったり、コンサートホールに行ったり、カラオケボックスに行ったりして、「自分がどう見られるか」に夢中だ。目の前に迫る危機のことなどウンコほども気にかけていない。
なので、僕のように表現に興味のない奴が、イヤイヤ危機感の表現をやっているというおろか極まりない事態が生じている。
ほんとうなら、ザ・傍観者に残された表現はゼロでなければならない。表現したくてたまらない多数の人たちが、森羅万象を残さず表現しつくして、ぺんぺん草も生えないくらいになっていないとおかしい。
なのに、ザ・傍観者が表現しなければならないことが山ほど残っている。このこと自体、人の運命がいかに致命的にクソであるかということを物語っている。