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言いたいことは、それだけか?

どうもこんばんは!最近、

言わないことの強さ

について感じさせられることが多かったので、それについて書きたいと思います。

さて、SNSって、言ったもん勝ちになりがちでしょう。言うことが正義になりやすい。

人よりたくさんの言葉を、より大きな声で、よりセンセーションに発信しなければ埋もれてしまう・・という風に思っている人は多いかもしれないし、もしかするとそれが事実なのかもしれない。

もちろん、言うこと、声をあげることには、いい面がある。

言える強さ

セクハラ、パワハラを告発する人たちが増えたのはいいことだし、それは最初に声を上げる強さを持っていた人たちのおかげだろう。

またネットに限らずだが、苦言を呈すると、相手に嫌われる可能性がある。それでもあえて「こうしたほうがいいよ」と言ってくれる人は、よかれと思って言ってくれているわけなので、やさしい人だ。

ちなみにぼくは、一言多いタイプである。
家族からもそういわれるし、ゲッターズ飯田さんの五星三心占いでもそのように出ている。

一言多いというのは、よかれと思って言いすぎる、ということであって、思い切って三塁にスライディングしたら、滑りすぎてタッチアウトになっているようなものである。カッコよく言えば。やさしさのオーバースライディングなのである。

それはともかく、言うこと、発信することには、強さややさしさが込められている場合があるのは言うまでもない。

言えない弱さ

逆に、言えない弱さというものもあるし、見てみぬふりをする冷たさというのもある。

顔に鼻くそがついてるよ

と言ってくれる人はやさしい人だが、たいていの人は、めんどくさいので見てみぬふりをする。

とはいえ、あえて言わない強さ、言わないやさしさが求められることも世間ではおおい。

言わない強さ

お涙頂戴になりたくはないが、ぼくが記憶にある限りでいちばん言わない強さを求められたのは、母を末期がんで入院させたときだった。

母からSOSの電話をもらって深夜バスにとび乗り、寝ないで松山について、その足で病院へ連れていって、即日入院だった(父は家で巨人戦を見ていた)。その後、ぼくだけが診察室に呼ばれて先生から

もって一か月

と宣告された後で病室に帰ると、

なんて言われた?死ぬって言われた?

と本人が鎌をかけてきた。

いや、そんなことはないよ

と笑顔で答えたつもりだが、どういう表情になっていたのか自信がない。血の気が引いて、顔がこわばっていたかもしれない。

うすっぺらな生き方をしてきたツケがまわってきたのだろうが、あれがぼくの強さの限界だった。それでも、さとられなかったのではないかと、今でも思うようにしている。

まあ、がんばりましょう。

黙って受け止める強さ、という意味では「茜色に焼かれる」 (石井裕也監督 2021年)という映画がやけに印象に残っている。

主人公の女性は、交通事故で夫を亡くしている。プータローみたいな売れない作家だった夫を、轢いた相手は大手企業の会長で、謝罪を求めるとクレーマー扱いされる。被害者と加害者が入れ替わったみたいなヘンな感じなのだ。

それから彼女は、母子家庭を支えるために風俗に勤めるんだけど、客からひどい扱いを受ける。

その後、息子が学校でいじめられて、住んでいた社宅に火をつけられて火事になって社宅を出なければならなくなる。

そんなこんなで、次から次に不条理が襲ってくるのだが、そのたびに彼女が静かに口にするセリフが

まあ、がんばりましょう

なのである。これは決して前向きな「がんばりましょう」ではなくて

人生とはこういうものです

あるいは、

わたしはなにも感じないようにして生きています

あるいは

ああだこうだ言ったってどうしようもないでしょ

みたいな「まあ、がんばりましょう」なのだ。目の前の現実を、ただ受け止めるだけの「がんばりましょう」。

言いたいことはそれだけか

そんなところに、昨晩、『碁盤斬り』(白石和彌監督 2024年)を見たんですね。これが、上記とやけに通じるところがあって心に残るんです。

(この先ネタバレあります)

江戸時代の話で、草彅剛さん演じる侍はむちゃくちゃに清廉潔白。曲がったことが大嫌いで寡黙で、言い出したら後へは引かない。ところが、このつよぽん侍が罠にはめられて藩を追われることになる。さらに、はめた相手(斎藤工さん)はつよぽんの奥方を手籠めにして、それを恥じた奥方は命を絶ってしまう。

その後、つよぽん侍は、江戸へ出て娘と貧乏暮らしをするんだけど、今度は50両を盗んだ嫌疑をかけられ、その金を返すために、娘を吉原に売らなければならなくなる・・というわけで、踏んだり蹴ったりなのだが、つよぽんはつねに無言である。

やがて、タクミ侍も悪事が露見し、脱藩して諸国を流浪しているとの知らせがつよぽん侍に届く。そこでかれは仇討のためにタクミ侍追って諸国を流浪するのである。

そしてついに見つけ出して、決闘!ということになるのだが、そこでタクミ侍が、つよぽん侍にいろいろ言うわけだ。

おまえのことを恨んでいるヤツは多いぞ

とか

お前が清廉潔白すぎるせいで、藩を追われて苦しんでいるものが大勢いるぞ

などなど。

これは、まあ正論なのである。つよぽん侍もこのことは重々わかっている。江戸へ出て世知辛さを知るにつけ、自らの至らなさに気づいて深く反省しているのだ。したがって、殿に許されても藩に戻る気はなく、自分の告発のせいで追放された者たちにお詫びの行脚をするこころづもりなのである。

そういうつよぽん侍に向かって、タクミ侍が上記の正論をとうとうと述べ立てるのをつよぽん侍は黙って聞いている

そんなことはオレもわかってるよ

とか

自分が藩にいないほうがいいのは事実だよ

とか

じつは追放された者たちにお詫びの行脚をするつもりなんだよ

みたいな、自己正当化の反論はいっさいしない。タクミ侍の言い分をしずかに聞き終えた後、否定も肯定もせず

言いたいことはそれだけか?

とだけ聞く。

この一言にしびれるね。彼が頭を下げるべき相手は、自分が追放した者たちであって、タクミ侍ではないということ。タクミ侍には仇討あるのみなのだ。

言えない人は言う努力をした方がいい

自分が不当に苦しめられていることに声をあげられない人は、言う勇気をもったほうがいいのはもちろんだ。

言えない弱さ -> 言う強さ

に向かった方がいい。しかしつよぽん侍とタクミ侍を比べた場合、タクミ侍は、言う弱さの人であり、つよぽん侍は言わない強さの人なのだ。

よく世間に4象限のグラフってあるでしょう?あれを使うと頭がよさそうに見えるのであえて使ってみたいんだけど・・・「しゃべる/だまる」を縦軸にして、「強さ/弱さ」を横軸にして描くと、人の行動って以下の4つのタイプ分かれると思うんですよ。こんな感じに。

かしこそうな図

タクミ侍が位置するのは、左上の緑の〇のところである。「しゃべる × 弱さ = 言い訳」というやつだ。

一方のつよぽん侍が位置するのは、右下のところで、「だまる × 強さ = 結果」である。

ちなみにぼくが位置するのは、右上の「しゃべる × 強さ = アドバイス」がオーバーランしたところの「一言多い」である。

陰謀論

さらにいえば、緑の〇とオレンジの〇のところは昔からあるけど、ネットが発達してから、ブルーの〇が肥大したと思うんですよね。

「だまる × 弱さ = 隠ぺい」が減った代わりに

「しゃべる × 強さ = 告発」が増えているのはいいとして、それがオーバーランして陰謀論になっているのが現在のような気がする。

それで僕が言いたいのは、今は発信する力の強い人がえらいみたいな風潮があるけど、

口が回ることを喜ぶな

と自分に向かって言ってやりたいのだ。

言葉を発すれば、自分はスッキリするが、その分、周囲に波紋が広がる。

言葉をのみこめば、周囲に波風は経たないが、自分の中に波紋は広がる。ぼくが母に言えなかったことが、いまだに自分の中で波打っているように。

繰り返すが人間には

しゃべる強さもあるが、しゃべる弱さもあり、
だまる強さもあるが、だまる弱さもある。

ここの切り分けは・・

言ったら何かが始まることと
言っても何も始まらないことがある

ということではないだろうか。そして、何も言っても始まらないことは、

まあ、がんばりましょう

とか

言いたいことはそれだけか

で済ませる強さを持ちたい。ぼく自身、ここにこうして気楽に書いているようだが、これだけ言葉の洪水があふれているネット上に文章を書くことには毎週ためらっている。

だれの役に立つのか?
なんのためになるのか?
自分のような者が、この言葉の洪水の中に、さらにムダな情報を増やすことの意味はあるのか

などと、いつも思っている。考えたことをサラッと書いたりはしていない。考えに考えて、考え抜いて、脳から鼻血が出そうになってから、これを書いている。

たとえアホな考え休むに似たり、だとしても、ぼくにとっては脳から出た鼻血である。そうだという以外に、自分に言い訳する方法を思いつかないのだ。

こんな風にハードルを上げて来週どうなるかというと、鼻血が出たら書くし、出なければ沈黙するだけである。

今週お会いできてよかったです。読んでくれてありがとうございます。来週も鼻血が出たら帰ってきます。

※言い忘れましたが、「碁盤斬り」の作品中、多くの場面は囲碁の描写です。そして「トメ」は國村隼さんです。どちらにも触れないように書きましたので、今から観ても十分楽しめると思います。

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