「恐怖の大王」について今さら語ってみる
こんばんは~
いやいやいきなり涼しくなってきましたね~
そんな中、お忙しい方も、お暇な方も、わざわざこんなところまでアクセスしていただきまして、ありがとうございます!
こういう感謝の気持ちは前々からあったのですが、これまで、noteの冒頭にあいさつを入れたことはなかったんですよ。
実生活ではしっかり挨拶するタイプなんですけどね~。ここでは何年もあいさつ抜きでしたね~・・うーむ。なんでかなあ。ねえ、なんで?
しらんがな!
ということで、これからは入れようと思います。さて・・
迫りくる人類滅亡の日
ぼくは1999年をリアルタイムで体験していない。とはいっても、もちろん、生きていたことは生きていた。
ただし、例のノストラダムスの大予言というのを、リアルタイムで体験していないのだ。恐怖の大王の降臨をまったく味わっていない。
あのころは留学を目前に控えていろんなことに忙殺されていたので、世間というものにぜんぜん接触していなかった。また周りにいた人間で、そういうことを気にしている人も全くいなかった。なので、世界が終りかけている(かもしれない)などということを知らずにうかうかとすごしてしまった・・。
じつに惜しいことをした、といまにして思う。
なぜなら、こういう機会は社会を観察する得がたいチャンスだからで、これが今日言いたい第一のことです。
こういうことは後から人に聞いても無駄なのである。今でも人に聞くことはできるが、それはしょせん人の意見にすぎず、自分の体験した現場の代替物にはならない。
肉体感覚を含めた現場体験
なぜならリアルタイムの現場体験というのは、自分の肉体感覚を含めたものだからだ。
その空気にまきこまれていた一人として、「この先どうなるかわからない・・」という肉体感覚を通して刻々と体験するのがリアルタイムの体験であって、あとからいくら詳しく人に聞いても、それとは質が異なる。
それは、太平洋戦争開戦時の雰囲気をあとから聞くのと同じことで、それをリアルタイムで体験した人の話をいくら聞いても、それはすでに「歴史の出した答えを知っている自分」というものが、のんびり聞いているだけのことである。
これからどうなるかわからない・・まだ原爆が落とされることなど知るよしもなく、アウシュビッツのこともしらないし、ヒトラーもぴんぴんしているし、日本がアメリカに勝つかもしれないぞ、などと思いつつ開戦のニュースを聞くのと、その後の紆余曲折を知ったうえで聴く体験談とでは、何から何まで異なる。
たとえば、こないだ日本政府が「巨大地震注意」というのを出したでしょう。あのときに世間に漂った不安感みたいなもの。ああいったものが、1999年の7月に多少なりともあったのかどうか、今となっては知りようがない。
そういう意味合いにおいて、ぼくは恐怖の大王をまったく経験していないので、それがじつに残念なわけである。
いちおう妻がけっこう興味を持っていたらしいので、当時の空気を聞いてみたところ、口に出して話題にしているひとはまったくいなかったそうである。ただし、今と違って「〇曜スペシャル」みたいな特番が大々的に恐怖の大王を特集していたし、テレビの影響力が今とは比較にならないくらい大きかったので、暗に気にしている人はけっこういたのではないか・・ということだった。
そうかもしれない・・にしても自分があれを体験していなかったということが、なんとも惜しいことにおもわれる。
賢者は歴史に学ぶ
もちろんリアルタイムの体験ばかりをありがたがってはいけない。ビスマルクの言葉に、
というのがあるが、確かにそのとおりだ。リアルタイムの経験だけから学びを得るには限界があるので、人は歴史から学ばねば賢い選択はできない。
とはいっても、リアルタイムの「現在」は、かならずしも経験である必要はないと思う。現在と呼ばれるものは、経験であると同時に歴史でもあるはずだとぼく自身は思っているのです。
これが今日第二番目に言いたいことで、現在と呼ばれるものは、その人の視点の持ち方次第で、経験にも歴史にもなり得るということ。
そして、現在を歴史とみなしつつ生きた場合、今この瞬間に起こっている出来事は、「太平洋戦争当時を体験した人にとっての太平洋戦争という歴史」みたいな得がたい知見の源になるわけである。
現在を歴史とみなす方法
現在を歴史とみなす方法を以下具体例を交えつつ述べてみたいんだけど、ぼく自身は、常日頃、大きな出来事が起こりそうになった時点で、
という想定を立てて、そういう未来から振り返って現在を眺めるようにしている。「未来から眺める」とは具体的に言うと
ということと同じである。極端なたとえで言うなら、たとえば太平洋戦争が開戦した当時に生きていたとしましょう。そういう場合に、
と仮定して、そういう未来から振り返るようにして今を観察するわけだ。こういうことをいつもやっている。
こういう風に「答えが出たあと」を想像し、その視点から現在を眺めると、現在というものを"最新の歴史データ"として体験できる。
今風の言葉でいえば、「極限状態を含めたメタ認知」とでもいえるのかな。この感じと方法論をできれば共有したいなと思って書いているんだけど、むずかしいことを言っていますかね?
わかれば簡単なことなんだけど。こううう視点を日ごろ持っていれば、社会の動き方がよりよくわかるし、稚拙な陰謀論にもひっかからず、一方でそれほど表層的に社会をとらえることも防げると思う。
そういうことをやってきた身として、繰り返すけれども1999年7の月をリアルタイムの歴史として体験しなかったことが悔やまれる。。。
死のうが生きようがそれはさておいて
さて。
現在を「出たとこ勝負の経験」としてのみとらえるのでなく、答えが出た後の視点から振り返って眺めるために大事なことは、結果にあまりフォーカスしすぎないことである。言い換えれば、自分の身の安全ばかりを気にしすぎないことだ。たとえば「巨大地震注意」の場合だと、
こういう風に、空気にのまれて、結果にばかり意識がフォーカスしている状態だと、現在というものは、ビスマルクの言う愚者の経験でしかなくなってしまう。
でも、そうではなくてですね。たとえばいま足元で地震が起こったら、ぼくは死んでしまうわけだけれども、
それはさておき!
という感じで、ぼくが生きようが死のうが、それはさておき!
の2つのどちらかの未来がいずれやってくるのは確実であーる。なので、「地震が起こらなかった未来」というのを想像して、そこから振り返って政府の動きや、有識者のコメントや、社会の動きを観察&記憶しておくと、それが最新の歴史データになるわけです。
これは前にも書いたことがあるような気がするな~。たとえば、中国バブル崩壊論が花盛りだったころに、仮に「その後中国バブルが崩壊しなかった」と想定して、そういう未来から振り返った現在として、いろんな有識者の意見を覚えておくんですね。そうするといろいろわかる。
喉元過ぎれば熱さを忘れる
逆に言うと、そうしていなければ、リアルタイムの経験ってすぐに忘れていしまうんです。
こないだも、実際には地震は起こらなかったわけだけど、でもリアルタイムの状況下で「こわいなこわいな」と身の安全と結果だけにフォーカスしていると、「来なかった」となった後では、逆にすっかり安心しきってしまって
という風にすっからかんに忘れてしまうのだ。せっかく貴重な知見が得られるはずのリアルタイムの歴史体験が単なるお祭り騒ぎに終わってしまう。
大きな事件というのは、いずれ歴史の1ページになります。
ならば、それを「いずれ歴史になる現在」として未来から振り返る視点で体験しておくと、歴史家の語る歴史から学ぶ以上に、かけがえのない歴史学習になるんです。
コツは、
ということです。
0.5か、0.25か
そこで最新の具体例として、
ということをできるだけわかりやすく説明してみようと思ったけど長くなったのでやめます。
結論だけを書いておくなら、パウエル議長はあらかじめメディアを通じて利下げ幅をリークしていた。これは、きちんと観察していた人なら100人中99.9人まで同意してくれるだろう。
具体的には、英フィナンシャルタイムズと米ウォールストリートジャーナルに同時にサプライズ的な記事が出たわけだが、英米を代表する経済紙で「同時に」出たというところが、あとで振り返るとリークのサインになっている。
ちなみにリークというのは悪い意味ではなくて、サプライズによる市場の混乱を避けるための事前示唆というくらいの意味だ。なので記事が出た時点でもう
みたいに結果にフォーカスするのをやめて、仮に0.5利下げという未来が来ると想像して、そういう未来から振り返って現在を眺めておくと、いろいろわかるのです。
前NY連銀総裁の発言は、当局の意向を受けての援護射撃だったんだな・・とか。逆に某有名投資家の発言にバックはおらず、単なる憶測を語っただけなんだな、などとわかる。
さらにわかること
ところで、植田日銀総裁は、就任以降、僕の記憶では時系列で、日経、読売、日経、ブルームバーグ、ロイター、日経の順にリークというか事前示唆しているんだけど、今回いよいよはっきりしたと思えるのは、植田さんのやり方とパウエルのやり方が酷似しているということ。
だとすれば、それぞれ独自の方針というよりも、おそらく一昨年にG7中銀総裁が集まった際に打ち合わせたんだろうな、ということも想像がつく。
なのでしばらくはこういうやり方が続くだろう、ということもかなりの確度で予測できるわけで、これが歴史としての現在から学べることだ。
さらにですね。日米の中銀が普通にこういうやり方を取っているということは、一般に世界中の政府が、こういう手段を常に選択肢として持っているのだと想像しても的外れではないだろう。
以上のことは、とくに各政府機関の内部事情などを知らなくても、市井の一庶民の視点であからさまに見えてくることだ。
そもそも内部事情通といったってなんもかんもの内部を知っている人などこの世にいません。永田町の内部事情に詳しい人はCIAの内部事情は知らない。CIAの内部事情にくわしい人は山口組の内部事情は知らない。山口組の内部事情に詳しい人でも、バーニングプロダクションの内部事情は分からない。
たいていの物事について、人はつねに外部者である。
なので一介の外部者として、世の中の動きをなるたけ正確に把握しておくには、現在に一喜一憂するのではなく、未来から見た歴史の1ページとして眺める癖をつけておくのがお勧めです。
また、いい例がみつかったら具体的に書いてみたいと思います。以上、ちょっと長くなったけど、読んでいただいてありがとうございました。