ホームレスが気さくだったとしてもだれも「気さく」とは言ってくれない
「エラい」とはどういうことなのだろう?
知能指数が高いという意味ではなくて、「あいつはエラそうだ」とか、「すっかりエラくなっちゃって・・」などという使われ方をするあのエライだ。
知能指数の場合は、生まれた時からエライわけだが、ぼくの言っているエライは、最初はたいしたことなかったのにだんだんエラくなっていく。
たとえば、駆け出しの役者さんなら、映画のクレジットでは小さな文字でゴチャっと表示されるけど、えらくなるにつれてフォントが大きくなり、だんだん前に出てくる。
相撲の番付表も同じだ。宴席のどこに座るかだとか、だれが最初にあいさつするかだとか、すべてこの手のエラさである。
そして、この手のことにむちゃくちゃこだわる人もいれば、まったくこだわらない人もいて、後者は
と呼ばれる。
先だって、藤子不二雄Aさんが亡くなられた(以下、A先生)。生前に交流のあった人々がつぎつぎに追悼コメントを出しているが、どれもこれも
うちあわせをしたわけでもないだろうが、「気さく」の大合唱だ。
しかし、考えてみれば、ホームレスのおっちゃんが気さくだったとしてもだれも
とは言ってくれない。ホームレスは、気さくがデフォルトである。元総理大臣が気さくだった場合にはじめて
と言ってもらえるわけで、気さくであるためにはまずエラくなければいけない。
人から「やさしい」と言ってもらうためには、まず、怖くならなければいけないのと同じである。
普通に立っているだけでコワい不良が野良猫に餌をやってはじめて
と呼ばれるように、これだけ気さく、気さくといわれるA先生には、「不良の餌やり」みたいなよほどはげしい「気さくギャップ」があったのだと推測される。
ちなみに、長年A先生と親交のあった作家の大沢在昌氏は、先生がご自分のことを「ぼくちゃん」と呼んでいたと語っている。
また、つねにおごられる側に回る人だったとも語っている。
えらい人はついおごる側に回りがちで、周囲もそれを期待しているものだが、あれだけ有名なのにつねにおごられる側にいたというのは、なかなかの人物だ。
ところで、ぼくがA先生に影響を受けた点はまったく別なところである。かれは駆け出しのマンガ家だったころから、日本文学全集を持っていたそうだ。
トキワ荘に縁のあった漫画家さんの多くが、そのことにおどろいたと回想している。
ぼくはそれにあこがれてしまい、20歳のころに古本屋で見つけた日本文学全集80巻を思い切って買ってしまったのである。たいへんな荷物だが、いまだに持っている。
30年以上にわたって、なにかあるとまずこれを開く習慣になっており、A先生のおかげで人生が豊かになったのは確かだ。
ところで大沢氏によると、A先生はお金があるとあるだけ使ってしまう子どもみたいな人だったという。
それで、奥さんやマネージャーさんからお金を持たせてもらえなかったために、いつもおごってくれる人をさがしていたらしい。
そうすると、若者には分不相応な日本文学全集をもっていたのも、きっとお金のある時にいきおいで買ってしまった「気さく」ゆえなのだろう。
それをまねしたぼくも、しらずしらずにA先生の気さくさに大きな影響を受けていたということになるわけである。