たとえSNSがあろうがなかろうが
一事が万事とは、「わずか一つの物事から、他のすべてのことを推し量ることができる」という意味だ。
SNSの文章も一事が万事であり、ちょっと注意深く読めば、書いた人の本質はだいたい見抜くことができる。
書いた人の本質を見抜くにあたって、ぼくがいちばん注意しているポイントは、
である。「自分に」であって「他人に」ではない。社会で生きていれば、他人にウソをつかなければならないことは多々ある。
たとえば、スーツケースに無修正のエロ本を隠しているのに、税関で
ありません
といわねばならないことはだれにでもあるけど、それは別にいい。ウソをついているという自覚さあれば問題ないとぼくは考える。
同じくパンツの中に大麻が入っていたとすれば、それは入れたから入っているのであり、入れたという自覚さえあれば問題ない。ただし、
と本気で言い出したらマズいということである。自分にウソをつき始めたらよくない。
さて、いまネットで発信している人は多いけど、ニセモノを見分けるコツは「なぜ発信しているのか?」と問うてみることだ。
こう聞かれて
こんな答えはすべて大麻パンツである。
こういう他愛のないウソで自分をごまかしている人は自己認識がたりないので、他の局面でも他愛のないウソで自分をごまかしていることが多く、あまり真に受けないほうがいい。
さて、ぼくがなぜネットで発信しているかというと、まず第一に
である。みんながやっているからやっているにすぎない。
「人を勇気づけたくて」SNSで発信しているという人は、ネット環境が整っていなかった1990年代前半でも、自分でファイバーを敷設し、SNSを立ち上げてひとを勇気づけていたのか。
そんなわけないだろう。
すでにSNSがあるからやっているだけだという、そんな当たり前のことすら気づけない人は、さっさとパンツに大麻を隠してハワイへ向かってほしい。
以上は、宇宙飛行士に「なぜ宇宙飛行士になろうと思ったのですか」と聞くのと同じことで、そもそも宇宙ロケットというものが存在しなければ、人が宇宙飛行士になろうと思うこともない。
いまタイムトラベラーを目指す人がいないのは、タイムマシンがないからだ。かんたんなことだ。
ぼくがnoteを書いているのもそこにnoteがあったから書いているだけである。こういう時代でなければ発信はやっていない。
ただし、発信という作業は、
という3段階で成り立っており、ぼくはネットがあろうがなかろうが、
この2つはまちがいなくやっていたはずだ。
ちなみに、noteを書き始めるまで10年ほどまったく発信しないでひたすら考えて、書くだけをやっていた時期があり、その時期のメモは膨大に残っている。たとえば
あるいは
みたいなこともすでに考え終わっているので、いずれネタに困れば出してくるかもしれないけど、まあ、説明がめんどくさいのでよほど追い詰められなければ出さない。
そういうわけなので、いまこの文章からちょっとでもインスパイアされた人がいるならば、その人はぼくにではなくnoteの主催者とネットの発明者に感謝してほしい。
かれらがいなければ、ぼくの考えや文章はだれの目にも触れることはなく、だれひとりインスパイアすることもなかった。
ただし江戸時代に生まれたとしても、石器時代に生まれたとしても、
というようなことは、呉服問屋の丁稚奉公をしたり、裸でマンモスを追いかけまわしたりしながら、考えていたことだろう。
そして、そういう人間だということは、読む人が読めば一発でわかる。そして、これはだれにでもあてはまる。
たとえば、
といっている人がいた場合、こう考えてみてください。
あるいは、
それとも
こういう風に考えてみて、、その「不正を暴く人」が、明治時代に万朝報(よろずちょうほう)の記者になっているイメージがわかないばあい、その
は大麻パンツにすぎない。
たとえばいま医師をやっている人が、江戸時代にも町医者で人を助けているイメージがわくかどうか?
今、クリエイターをやっている人が、石器時代に洞窟壁画を描いていたイメージがわくかどうか、
今バンドをやっている人が、鎌倉時代にも歌を歌うのが生きがいだったような感じがするかどうか。
SNSがあるからたまたまやっているだけのことを、さも天職のように言っている人はこういう風に想像を働かせるとだいたいバレるので、よろしければ参考にしてください。そういう人はほかの所でも他愛のないうそをついていることが多いが、それに巻き込まれないで済む。
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