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10代の終わりごろ自分はどういう気分で生きていたんだろう

こういう記事を読んだ。

新宿歌舞伎町の「TOHO横」というたまり場に2018年ごろから未成年の少女たちがあつまるようになったそうである。あつまった子たちのあいだでは自殺が流行ったり、ホスト狂いしたり、ひまつぶしに集団リストカットしたりしているのだそうだ。

それについてどうこういうつもりはない。取材者は「危機感を持っている」というがとくに危機感は感じなかった。興味本位の週刊誌ネタに思える。

しかし、その若者たちがふわふわと死とたわむれている感じを読んでいてふと「10代の終わりごろ自分はどういう気分で生きていたんだろう」とかんがえてみたのである。しかし、なかなか思い出せない。できごとなどはあるていど思い出せるのだが、じぶんがどういう気持ちで生きていたのかはなかなか思い出せない。しかしなぜか大事なことのような気がする。そこで、きょうはヒマだったので2時間くらいかけてああでもないこうでもないとおもいだしてみた。

ぼくは10代のおわりごろ「アタマが狂いそうだ。アタマの中身がひっくりかえりそうだ」とたえず思いながら生きていたようだ。アブナイやつである(笑)。「世界が今にもひっくりかえりそうな感じ」、「世界全体がウソでできあがっていることにとつじょ気づいた感じ」、たえずそういう気持ちにおそわれ、ゆさぶれながら生きていた。だれにも相談せず「アタマが狂いそうだ」とおもいながら毎日ひとりで散歩していた。これが精神病の初期症状なのか、それとも思春期の成長痛みたいなものだったのかははいまでもわからない。

そういえば、大学入学時の健康診断の問診票にうっかり「アタマが狂いそう」と書いて、あとでカウンセラーに呼び出されたことがあった。これはいぜんnoteに書いたことがある。

この「アタマの狂いそうな感じ」は、その後の進学・就職・留学などの紆余曲折をへて、そのおりおりにかたちをかえてすこしずつ落ち着きながらも決して失われることなく現在もぼくのアタマの底にある。いまでは「アタマが狂いそうだ」と思うことはないが、形を変え「名づけようのない狂気」としていまもアタマの底に存在しているのがわかる。

ぼくはこのnoteで「アタマの底にある狂気」に直接向き合ったことはない。しかし間接的には、まいにちその狂気の表面をそっとなでるようにしてこのnoteを書いてきた気がする。ぼくの書いたものを読んで「こいつヘンなことを言うなあ」と思った人がいたとしたら、それはぼくがその狂気の表面をなでている瞬間に出くわしているのだ。

これを読んでいる人が何歳なのかはわからないけれど10代や20代前半ということはないだろう。あなたは19歳の時の気分をはっきりと思い出せますか?ぼくは思い出すのに2時間かかった。寝転がってああでもないこうでもないと考えてようやく「アタマが狂いそうだ」と思っていたことをおぼろげに思い出したのである。

ぼくはいまどきの若者にムリに近づいていく必要はないと思っているし、歌舞伎町にたむろする若者も関係ない。しかし「若いころの自分」に近づいていくことはとても大事なことだと思える。あのころの狂気がすべての出発点だ。それを忘れて、その後の読書で仕入れたへりくつを書きつづってもむなしい。

ちなみにnoteがなければ、こんなヒマなことはしていない。さっさと映画を見るかゲームでもしていただろう。しかしnoteというものがあり、それをだれかが読んでくれるかもしれないと思うきもちがあったから本も読まずゲームもしないでひたすらゴロゴロしつつ19歳の自分に近づくことができた。読んでくれた人に感謝します。

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