鎌倉のお寺でこんな風に感じたのは初めて
今週末は天気が良かったし感染者数もずいぶんへった。一方で、イギリスでもドイツでも感染は拡大しているし時間差で再上陸してくる可能性はあるわけで、そうなると動くなら今がベストという判断をくだした人も多いだろう。
ぼくもその一人だ。日曜の午後から今日(月曜日)にかけてひさしぶりに観光地に行ってきた。毎年、江ノ島から鎌倉をめぐっているのだが今年も出かけた。今年は長谷寺で「1300年プロジェクト」というのをやっていたのでそれを見に行った。
とはいえ「立派だった」とか「よかった」という話ならここに書くほどのことはない。しかしことしは昨年までの名刹めぐりとはまったく異なる感慨を得たのでそれについて書く。
毎年行っているわりには、ぼくは名所旧跡めぐりが苦手だ。あくまでメインは宿の風呂と料理と酒であり、あとは妻について歩くだけである。それにしても名刹を巡る意味がわからない。
先祖の墓のある寺にお参りする意味は分かる。線香を立てて手を合わせて故人のことを考えるのだ。しかし、鎌倉の名刹で何を考えればいいのか。
鎌倉のお寺というのは基本的に観光地である。つまり自由の女神みたいなものだ。そして自由の女神を実際に見ると「ウルトラクイズと同じだなあ」とおもう。同じく江ノ島を見ると「テレビ神奈川と同じだなあ」とおもう。そして鎌倉の大仏を見ると「教科書の写真と同じだなあ」とおもうだけだ。それ以外になにを感じればいいのだろう。立派な建築に感心し、きれいな草花に感心すればいいんだろうか。
長谷寺の本堂には立派な十一面観音像があるが、そのわきでミニチュアモデルを売っていた(28万円)。2万円の小型モデルも売っていた。1000円払えば十一面観音の足をさわれる。ろうそくを立てたければ200円だ。あっちにもこっちにもおみくじの箱がある(100円)。お寺というのは極楽浄土を願い、亡くなった人を弔う場所のはずなのでなぜおみくじをひくのかわからない。というわけで本堂はどこもかしこも"¥"¥"¥"である。維持費は膨大にかかるのだろうが、それにしても「ここはショップか!」とおもう。しかも思っていることをつい口に出してしまう性分なので「中学生みたい」と妻に言われる。
しかし一通り見終わって手洗いに立ち寄ったところで独りになる時間があった。そこではじめて自分モードに入り、まだ歩いていない道をたどってみたのである。とちゅうに小さな石仏があった。
何百年も前に作られたものにちがいない。野ざらしで観光客はかえりみないが、じっと見ていると、いま自分が見ているようにこの仏像を見、このまえで生を苦しいと思い、死を不安に思い、手を合わせた人はどれほどいただろうかと思う。みな亡くなった。そして、いまごったがえしている観光客もあっという間にあの世へ行く。そのくりかえしで1300年だ。数百年分の視線が石仏に凝縮しているように感じ、それがじぶんにはね返ってくるように感じる。観光地のお寺でこんな風に感じたのは初めてである。
さらにルートから外れた場所ばかり回ってみた。目立たない場所にいくつも石仏があり、ひとつひとつに何百年分の視線を感じ、見入ってしまう。トップ画像の地蔵も無数にあるように見えるが、一つひとつに思いが入っている。
そこで本堂にとって返して十一面観音像をもう一度見てみたのだが、しばらくねばってみたけど「立派だなあ」と思うだけで石仏のような感慨は起きなかった。たぶんぼくの感じ方がまちがっているのだろう。
そうだとしてもようやく自分なりのスタンスとのとり方というかどういう気持ちで鎌倉の寺に行けばいいのかがわかった思いだ。来年からは立派な本堂やご本尊に感心するフリは止めて、今日見たようなものを見て歩くつもりだ。
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