『最後にして最初の人類』について、ふたたび
誰からも求められていないにもかかわらず「存在しなくてはならないもの」ってやつがある。たとえばブラックホール。
などと思っている人は一人もいないわけだが、それでもしっかりと存在している。それどころか、人類がまだアメーバにすぎなったころからすでに存在していた。
人類よりもブラックホールのほうが宇宙の先輩であり、ブラック先輩の目から見れば、人類の方が「余計な存在物」に見えるかもしれない。
これは極端な例だが、人間の生み出した創作物の中にもブラックホールみたいなものはある。だれにも求められていないにもかかわらず、ものすごい存在感をもって強引に空間を占領しているような創作物が存在する。
「アートフィルム」という映画
すぐれたアートはだいたいそういうものだけど、映画の中でも「アートフィルム」と呼ばれるものの中にそうしたものがある。映像作家のふるいちやすしという人がアートフィルムのありかたをこう記している。
そんなアートフィルムの1本に『最後にして最初の人類』(2021)という作品があって、すでにこのnoteでも紹介している。
この映画も「お客のことなど知るか」という感じの作品なんだけど、そんな映画を取り上げて紹介した僕の記事もかなり
という感じに仕上がってしまった。これだ↓。
今日の記事はその続編なので、輪をかけて読者を無視した記事といえるだろう。だから、最初に謝っておきたい。
こんなものを書いてどうもすいません
しかし、誰に求められていなくても、存在しなければならないものはある。自分でいうのもなんだけど、今日の記事はそういう記事であり、だれに読まれなくても、いつか誰かが書かなければならない類のものである。それは僕でなくてもいいのだが、いつだれが書いてくれるかわからないので、念のために僕も書いておこうということだ。
オーディオ評論家 菅野沖彦
とはいえ、さすがにためらいがあり、いっそ、あの記事の末尾に「付録」みたいにひっそりとつけ足そうかとも思っていたのだが、今日考えが変わった。
それは、オーディオ評論家の故 菅野沖彦氏の文章を読んだのがきっかけなんだけど、ここで菅野氏の話に流れてしまうと記事が支離滅裂になるので、そこは後回しにして先をいそぎたい。
あらゆる映像は具体映像である
さて結論から言うけど、『最後にして最初の人類』は、
だと思う。いわば「抽象映像」である。もちろん「抽象映像」などというものはこの世に存在しない。あらゆる映像は具体映像である。
絵画には抽象画というものがあるが、映像には抽象映像というものはありえない。具体物をカメラで撮影するから映像になるのであって、あらゆる映像は具体映像なのである。
『最後にして最初の人類』も、厳密にはもちろん具体映像である。あれは旧チェコスロバキアのオブジェ群を撮影したものであり、たしかに映っているのは抽象的なオブジェなんだけど、抽象芸術を撮影しただけで抽象映像になるのなら、NHKの「日曜美術館」は抽象映像だらけである。
光と影による音楽
しかしあの映画が「日曜美術館」と異なるのは、オブジェの群れをオブジェそのものではなく「光と影によるリズムとハーモニー」に還元してしまっていたことだ。
そこには、
みたいなものが確実に感じられ、それはかつてぼくが見たことのない世界であり、はじめて味わった映像体験だった。
なぜそんな映像が可能になったかというと、監督が作曲家だったことが大きいと思う。
そもそも音楽とは抽象的なものである。この監督は、光と影を使って作曲するように映画を撮ったのではないか。あの作品は、畑違いの人だからこそ生まれた奇跡みたいなものだったのではないか。
レコード音楽の抽象性
ところで、前述の菅野沖彦氏は、フリーの録音家でもあったのだが、彼の持論は「オーディオで聞く音楽は生演奏の代用ではない」というものだった。
オーディオで聞く音楽は、ライブ演奏からその場の具体性を取り去った抽象的な世界であり、別の芸術なのである。これはパントマイムが声で説明したらその抽象度が失われてしまうのと似ていると菅野氏は言う。
菅野氏が今、生きていて『最後にして最初の人類』を見たらどう評していただろうか。僕が感じたように、「具体映像の中で抽象性をかぎりなくふくらませたもの」と評価してくれたのではないかと思う。
さて、最後に、菅野氏の全53回にわたる記事「ピュアオーディオへの誘い」をおすすめしておきます。戦前・戦中・戦後と人生をひたすら録音芸術に傾けた稀有な記録であり、だれもが読む価値のあるものだと思います。