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壁画ってふしぎ

ロボットというのは、かんたんにいうと人間をマネて作った道具のことだ。ヒトの肉体のうごきをまねて作ったのがロボットである。

一方で、ヒトの頭脳のはたらきをマネてつくられたのが人工知能である。人工知能とは、頭脳のロボットだといってもいいだろう。

ロボットや人工知能は、ヒトのマネだが、そもそも人間の使っている道具は、なんらかの自然物をマネてつくられている。

たとえば、包丁やナイフは、もともとは尖った石を使っていたのだろう。それをマネてもっと使いやすくしたのが包丁やナイフのはじまりのはずだ。

家というのも、もともとは洞穴とか、木のうろなどが始まりだったと思う。そういうところで雨露をしのいでいた人類が、やがてタテ穴を掘ってそのうえに葉っぱをかぶせて雨露をしのぎはじめたのが住居のはじまりだったのではないか。

ヒトが火を使い始めたのも、最初は山火事の燃え残りを利用したのが始まりだったと思われる。

つまり、火も家も刃物もみな偉大な道具ではあるが、すでに自然界にあったのものを改良したという意味では、すべて「自然のマネ」である。

ロボットが肉体のマネであり、人工知能が頭脳のマネであるように、あらゆる道具は「自然のマネ」からはじまったのではないだろうか。

さて、そこで「車輪の発明」だ。車輪というのは輪っかのことだ。輪っかとは車のタイヤとか電車の車輪に使われる丸くてコロコロと回転するもののことである。

あまりに当たり前の存在なのでそれを発明品だとおもう人はすくないかもしれないが、車輪の発明は「人類黎明期の最も重要な発明の1つ」だとされている。

車輪が発明されるまでは、人間が背負ったり、ロバや馬に背負わせたりする以外に方法がなかった。

この車輪をいつだれが発明したのはわかっていないんだけど、紀元前3000年にはすでに使われていた痕跡が見つかっているそうである。一説によれば、新石器時代にまでさかのぼるのではないかといわれている。

このようにぼくも「車輪は偉大な発明だ」というかんがえを学校で刷り込まれて生きてきたんだけど、きっとあなたもそうだろう。しかし、よくよく考えてみると、車輪の発明というのは、あまり大したことではないのではないか。

尖った石からナイフが生まれ、洞穴から家が生まれたように、車輪も、ころがっている丸太から生まれただけなのではないだろうか。

けっして古代のエジソンがある日ふと「そうだ!車輪というものをおもいついたぞ!」となったのではなく、丸太をみんながころがしていたいのがはじまりなのではないか。

丸太を洞穴の入り口までひきずっていくのは骨が折れるので、そのまま転がしていったのではないか。そうやって何本もまとめて転がしているうちに、その上にものをのせるようになったのが車輪のはじまりのような気がする。

こう考えてみると、人類黎明期の偉大な発明は、すべて自然からヒントを得てできあがったものだと思えるが、一つだけそうではないものがある。それが壁画だ。自然界に壁画の原型になりそうなものは何もない。

世界最古の壁画は4万年前のものだそうだが、この解説にある通り、狩猟のようすを描いた"ものがたり"である。

つまり、現実の光景を絵として模倣し、ものがたりにするという意識がすでにはたらいていたことを示している。

現実をカベの上にマネするという意識の働きがあったということは、現実を映すコトバの力をすでに持っていたということである。

コトバにしろ絵にしろ、これに近い自然物はどこにもない。

燃える熱いモノを見てそれを「ヒ(火)」とよび、頭上の青い広がりをみて「ソラ(空)」と呼ぶのは、その燃えるモノや広がるモノを「ソラ」とか「ヒ」という言葉でマネているのである。このマネという働きは、どうぶつが哀しみの悲鳴を上げたり怒りのおたけびを上げるのとは違う。

こういった「マネる」という意識そのものを「自然をマネて」手に入れることはできない。そもそも自然をマネる意識がなければ、家もナイフも車輪も生まれていない。

このマネる力がいったいどこから来たのかとても不思議だし、このナゾを説ければ、意識というもののナゾはとける気がする。

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