ヘタだけどすごい
小説を書くことは手軽にはじめられる。文章を書くことの延長上で、ものがたりを語ることの延長上にもあるからだ。だれでも今すぐに始められる。
これは会社員のAさんから聞いた話なんですけどねぇ・・
これだけで「物語を書く」という行為は始まってしまう。
音楽も手軽だ。小学校や中学校で縦笛やハーモニカを吹いたことのない人はいないだろう。その延長上にバンドがあり、プロの演奏家がいるわけだ。
芝居もそうである。学芸会で金太郎を演じたことがあるのはぼくだけではないはずだ。ステージでなにかしらやったことのある人がほとんどだと思う。
そこにぼくは映画とのへだたりを感じてしまう。
中学や高校で映画を撮った経験のある人はほとんどいないだろう。いまはYouTubeのようなメディアがあるのでそこまで遠くに感じないかもしれないけど。
それでも映画を撮るにはまずシナリオがあり、出演する人がいて、それを撮影する機材やスタッフが必要で、そのうえで編集して音を入れなければならない工程があって、その大変さをシロートが想像するのがむずかしい。
水野晴郎大先生の大傑作『シベリア超特急』を見て、映画を撮ることのタイヘンさを思い知らされた人も多いに違いない。ぼくもその一人だ。
水野先生ですらああなっちゃうんだ・・
という衝撃が大きかった。
淀川長治先生が生涯に一度だけ手がけたラジオドラマの脚本というのも読んだことがあるが、感想は「淀川先生ですら・・」以下同文である。
なのでいくらたくさん映画を見ても簡単に批判したりしないように気を付けているつもりだ。「お前がやって見ろ」と言われてもできるかどうかわからないから。
にもかかわらず、いくらシロートとはいえ、いくらなんでも、これはちょっとどうだろう?というものも存在しているのは事実である。たとえば『シベ急』については
特急列車の車内なんだから、ほんのちょっとくらいは人や物が揺れでもいいんじゃないでしょうか
これくらいはシロートが指摘しても許されるのではないか。画面が微動だにしないし走行音もないので、どうしてもホテルの一室に見える。ぼくは水野先生を尊敬していたので「これは列車の中なんだ」と自分に言い聞かせようとして疲れた。
さて、列車つながりでいうと最近Amazonプライムビデオで『ゾンビ特急"地獄"行き』(1972)という作品を見ようと思ったのだが、がまんして3分32秒まで見たけどこれで限界だ。
異論のある人は最初の1分を耐えてほしい。なお「光過敏性てんかん」という症状を引き押すことがあるので注意が必要だ。ぼくは気分が悪くなったけど3分耐えた。
これを見るといくらなんでもこの人たちよりもましに撮れるのではないかと大多数の人が思うだろう。とはいえ『シベリア超特急』の例もあるので謙虚さを失ってはいけない。
そういうわけでジョージ・A・ロメロというゾンビ映画で有名な監督さんのヘタさとすごさについて語りたかったのだが、長くなりすぎた。どうしようかな。
とにかく最近の映像作家のひとたちは皆さんゾンビ映画をつくるのがお上手だ。最近、ロメロの『クレイジーズ』や『ゾンビ』をリメイクを見て上手だなあと感心している。
ロメロなどどはるかにおよばない脚本、演出、演技力、カメラである。けれども何かが欠けている。ちょっと足りないのではなく圧倒的に足りない。
感想としてはとてもエラそうなんだけど「それだけお上手なんだからもっとご自分の撮りたいものをとったらどうでしょうか」としか思えない。
そもそも今のゾンビ映画のスタイルを生み出したのはロメロ監督だ。ロメロ以前にも「ブードゥー教の死者をよみがえらせるゾンビ」という概念はあった。しかし。それがウイルスのように広がり、数千数万という死者がヨロヨロしながら津波のように押し寄せてくるビジョンはなかった。
ロメロにはこのビジョンへの執念がある。ただしテクニック的にはスタジオの使い走りをしながら学んだ人なのでどこかしらシロートっぽさが残っている。一方、最近の監督さんはしっかりした映画学校を出ておりでテクニックは数段上である。
ジャズでも同じことが起こっている。最近の人は皆ジュリアード音楽院などをでており、草創期の天才と呼ばれるチャーリー・パーカーよりも技術は秀でているがなにかが足りない。もしかすると漫才などにも同じ現象があるのではないか。
ロメロ映画のリメイクはとてもお上手なんだけど圧倒的に何かが足りない。あの感じは何なのだろう。もしぼくがクリエイターなら、それが何なのかを徹底的に見極めて、まったく違うジャンルの映画でぶちかましてみたいものだ。そういう人が出てこないものだろうか。