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「ヘイロー3」から見た多様性のパラドックス
みなさん、どうもこんばんは!
さて、最近、ぼくは寝る前にちょこっとゲームをやっておりまして、まあ、もともとそういう習慣があるんですけど。
ちなみにいまは「ヘイロー3」というのに熱中していて、ゲーム機はXboxというのをつかってます。
これはマイナーなゲーム機で、プレステやSwitchが幅を利かせている日本ではまるっきりのマイノリティ扱いというか、それにしてもXboxってなんでこんなに人気ないんですかね。ねえ、なんで?
しらんがな!
ということで、それはもとかく、ここで言いたかったのは、寝る前に小学生向けのゲームで遊んでいるような意識低い系の人間がこれを書いています、ということです。
多様性は均一性
いま多様性とかインクルージョンなどというワードが錦の旗印みたいに連呼されている。水戸光圀の印籠みたいな感じだ。
このワードを出されたら老若男女を問わず、エスニシティもジェンダーも問わず、一律に土下座するしかないような、均一な対応を迫られているわけなんだけど、とはいえよく考えたら、多様性ってやや問題あるよな、というのがというのが、今日言いたいことです。
その"多様性"のほころびみたいなものが、ウクライナ戦争でありガザ侵攻だという風に、ぼくには見えるんだけど、まあ、しょせんXboxでヘイロー3をやっている人間が言っていることですから、あまり真に受けないようにしてください。
大事なのは弁当箱
さて、多様性とはダイバーシティということで、いちおう言葉の原点を探る意味で、Merriam-Webster英英辞典を引いてみると、こういう風に定義されていた。
diversity = さまざまな要素で構成されている状態
(the condition of having or being composed of differing elements)
この定義のポイントは二つあると思う。ひとつは「さまざま」で、もう一つが「構成」という点だ。
多様性をかりに弁当に例えるなら、寿司も、クスクスも、ベーグルも、ナンも入っているというのが「さまざま」ということ。
一方で、そういうさまざまなものによって多様性は「構成されている(コンポーズされている)」んだけど、このcomposeってそもそもどういう意味なのだろうか。
そこでこんどはcomposeで辞書を引いてみると、こういう風に書いてあるわけ。
compose = 適切な秩序で配列すること
弁当に例えれば、寿司やクスクスやベーグルやナンが「適切な秩序で」配列されているというのがダイバーシティだということになる。
では、適切な秩序ってなに?なにが適切でなにが不適切を決めるの?というと、そりゃあ弁当箱の形で決まるに決まっている。
まず弁当箱ありきで、その中に、さまざまなものが平等にならんでいるのが、ダイバーシティである。
繰り返すけど、異質なものを共存させるには、まず弁当箱の形を決めなければいけないわけだ。
そして、ここで話を、弁当の多様性から社会の多様性に広げると、この弁当箱こそがパラダイムと呼ばれるものに相当することになる。
パラダイムとは、「ある特定の時代や分野において、支配的な考え方やものの見方」という風にいわれるけど、かんたんにいうと、ある世代に共通する価値観みたいなもの。
時代や場所を共有している人たちは、どうしてもモノの見方が似かよってくる。その暗黙の土台になっているものがパラダイムとよばれるもので、いってみれば、特定の時代と場所をつめこんだ弁当箱みたいなものだ。
さて、ここで話を先取りして言っておくと、真の創造性ってのは、このパラダイム(弁当箱)を破壊するような代物なわけですね。
あるIT起業家に聞いた話
ちょっと難しくなってきたので、具体例を出してみよう。
ある知人のIT起業家に聞いた話だ。それもコロナがまん延していた数年前のZOOM会議の話なんだけど、世界中のIT起業家と話していると、みんないっていることがなんだかおなじになっている、と言っていた。
インド、アフリカ、日本、ヨーロッパ、アメリカ、東南アジア、いろんなところの人たちと話すんだけど、グローバル化と言われるようになってから、みんなのしゃべる内容が同じになってきたのだそうだ。
考えてみれば、たしかにエスニシティはさまざまなんだけど、
世界で活躍しているIT起業家
という同じ弁当箱に入っている人たちなので、同じパラダイム(色眼鏡)でモノを見ており、言っていることも似たような感じになるらしい。
彼にすれば、おそらくフィリピンのIT起業家よりも、八王子のヤンキーと分かり合うほうがよほどむずかしいはずだ。
なぜなら、八王子のヤンキーはそもそも多様性とかインクルージョンなどという概念すら知らないから。
でも、本当の異質さってそういうものだと思う。コミュニケーションが困難なほどの異質さこそが真の異質さであると。
グローバルノース
ところで、あるところで評論家の佐藤優さんが興味深いことを言っていた。
グローバルサウスなんてありません。あるのはグローバルノースと、インターナショナルサウスです。
なるほどたしかに、と思ったんだけど、佐藤さんの言い方に習うなら、多様性とか言っているのはグローバルノースの人だけなんだよな。しかもその中でも特定の層にかぎられる。ぼくなりの造語で言うなら
グローバルノースのリベラル世論
みたいなものにかぎられる。そしてこれこそが、多様性を詰め込んでいる弁当箱の正体だと思える。
かなり狭い弁当箱なので、いろんなものを詰め込もうとして軋轢が起こっているのは今の世の中を見ればわかるけど、やっかいなのは、この手のリベラル知識人は、自分たちの弁当箱が狭いと思っていない。
自分たちの視野こそがグローバルで、自分たちの見ているのが世界のあるべき未来像だと思い込んでいる。
当然、そこからはトランプもプーチンも習近平も排除されており、そのあたりに、すでに"多様性"のパラドックスがみごとに表れているともいえるだろう。
包括性を否定する連中は包括されない
自由と平等
とはいえ、多様性もインクルージョンもいいものだとおもいますよ。それはコミュニティのあり方としてはとてもいいものだ思います。
よく自由と平等は相反する関係にあるといわれるけど、多様性を認めるというのは、どちらかというと平等志向の考え方である。
一つのコミュニティの中で、さまざまな背景を持つ人々が同じ待遇を受けられるようにしましょう、ということなので、いごこちのよい社会を作るためには、いいことだ。
でも、これは同じ弁当箱の中で、クスクスもカレーも寿司もベーグルも均一のあつかいにしましょうというような話である。
で、すでに書いたけど、真の創造性というのは、それとは相反していて、この弁当箱をひっくり返すようなことだ。
いごこちのいい弁当箱になるのはいいことなんだけど、それをひっくりかえすような力はそこからは生じない。
よく破壊的創造などといわれるけど、そういったものは真に異質なものとの遭遇からしか生まれない。この点を勘違いしてはいけない気がする。