近い将来を想像する力を
ツーブロックという髪型。私も20年以上前、高校生だった頃よくこの髪型にしていた。流行っているというよりも、そのままにしておくとぼわんぼわんになってしまうクセ毛のおさまりを少しでも押さえようとする思春期の私の苦肉の策だった。刈り上げたところに上の髪が降りてくるため、雨の日でも何とかおさまった。
それに対して何の思い出ももっていなかったが、昨今ツーブロックがまた少し流行っているらしい。かといって別に何も思わなかったのだが、一つの記事を目にして驚いた。
東京都の一部の高校では、このツーブロックという髪型を校則で禁じている学校があるようだ。
そのことについて、都議会予算特別委員会で質疑応答があったとのこと。
なぜツーブロックは禁止されているのか。それに対して東京都教育委員会教育長がこう答えたそうだ。
「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているものでございます。」
髪型がツーブロックだと、事件や事故に遭う?
いやいや、一概にそうは言い切れない。それは、たぶん答えてる本人も思っていることじゃないのかな。
ここで、そんなことの揚げ足をとるつもりは毛頭ない。
たしかにツーブロックは見る人が見ればチャラく見えるかもしれない。そういう意味で、“高校生の髪型”にはふさわしくない、という考え方もあるのはわかる。
例えば、校則に『人を殺してはいけません』と書いてある学校はないのではないか。
例が極端すぎるかもしれないが、校則は法律ではない。
だから、そこに書いてあるものがだめで、そこに書いてないものはOKだ、というものではないはずだ。
だがしかし、昨今はどうであろう。
どこにそんなこと書いてあるんだ!
そんなクレームを耳にしたことはないか?
スポーツなどはルールとして定められているものがあり、それが全てだ。だから、時々そのルールを上手に解釈をしてゲームを運び、勝利を収める選手(チーム)が現れる。それがちょっと問題になると、次年度にはルールが改定される、なんて話はまあまあある話だ。
スキージャンプなどは、日本が強すぎるあまりどんどんとルールが改定されている。北欧生まれのスポーツは、北欧の人が勝ってほしいと思うのは理解できなくもない。ちょっと残念には思うが。
プロ野球で、外国人の選手が何人まで登録して良いとか、何人まで出場して良いとか決められているのも、お金があるチームだけ強くなってはいけないとか、日本のプロ野球なのだから、日本人が出られるようにしようとかいう気持ちから決められていることは想像がつく。
しかし、あくまでもスポーツの話。
校則とは質が違う。
書いてあることが全てではない。書いてないことでも、だめなものはだめ。していけないことはしてはいけない。
それをことあるごとに説明するために、常日頃から六法全書を持ち歩くわけにはいくまい。いくら便利になったからといって、スマホでいつでも六法全書が見られるようにしておいたとしても、誰がそんなことに耳を傾けるものか。そんなに暇ではない。
そこに書いてなければ何をしても良いはずない。スポーツをしているわけじゃない。何か問題が起こったときに、基準として判断をする材料になるのは、確かに法である。法治国家である日本に暮らす以上、それは守らなければならない。
本当だったら、校則にはこう書きたかったはずではないのか。
高校生らしい髪型にしましょう。
と。
しかし、そう書いてしまうと、様々な方面から様々な意見がとんでくる。
これが自分の考える高校生です!と主張すれば何でもOKになってしまうかもしれない。
だから、こうは書けなかったのだろう。
どちらが先に首を絞めたのだろう。
ゼロ・トレランスではないが、こうなったら隅から隅まで規則たるものを書きまくってしまうしかないのだろうか。
解釈についての差であるならば、もはや恐怖心で押さえ込むしか本当に道はないのか。
私は、入れ墨は反対派だ。ピアスも好ましく思っていないかもしれない。それは、どちらも痛そうだから。
こうなると、人間が古いとか新しいとかいう視点にってしまうのか?
人権の問題もあるかもしれない?
最後は自分に返ってくる。
想像力がいる。
明日の想像ではなく、近い将来のことを想像する力が。