もはやネタは瞬間芸 落語を聞くことができなくなったのか ライブ行きたい
ネタをテレビで見ることはなくなりました。今は、どの番組においても『宣伝』なしでは成立しません。
お笑い番組といえば、漫才か落語か。そんな時代はとうの昔に過ぎた。漫才番組は年に一度祭典があるぐらい?毎週のようにお目にかかっていた頃とは、ネタに触れる回数が違いすぎます。だから、出てくる人の名前も顔も知らない。にもかかわらず、そこで優勝すると一躍時の人になるようです。ジャパニーズドリームがそこにはあるらしいですから。
その他の番組は、コントのショートカット版を詰め合わせたものばかりのようです。
そりゃ昔から笑点のような番組で月亭可朝師匠のネタを楽しんだこともあったが、今の雰囲気とは全然違います。
小ネタの詰め合わせでは、文化として確立されないでしょうし、当然継承されていくこともないでしょう。漫才も落語と同じく文化であるととらえられるならば、落語も漫才も「ヤバイ」のではないでしょうか。文化として捉えていなければ、何もヤバくはないのですが……。
もちろん文化というのはそんなに簡単に継承できるものではなく、年輪を重ねることでその芸が磨かれていくことは言うまでもないことなのですが……。
M-1が漫才を文化としてとらえ、それを受け継いでいくためのひとつの手だてであると(考えられていること)を願います。
そういう番組が減ったのは、もちろんそれでは視聴率がとれないからでしょう。視聴率がとれなければ番組としては成り立ちませんから、作り手側も数字がとれる番組を求めていくのは仕方がないことです。
つまり、落語の番組がほとんど見られなくなったのは、視聴者側が見なくなったからに他なりません。
これは、言い換えれば【視聴者が落語という長いお話をじっくりと聞くことができなくなった】というと言い過ぎでしょうか。
落語という、伏線ありまくりの小咄を聞けなくなったという話は正直耳が痛いです。中学生を相手にしていて思うのは、本当に行間が読めなくなったということです。今の若者が読んでいるものを借りて読むと、読み手が自由に感じて良い部分が全て説明してあります。行間なんてない。書いてあることが全てで、書いてないことは存在しない世界です。
それは、話をしていてもそうです。言わなくてもわかっていてほしい部分もすべて全部言わなきゃわからない。人の気持ちを感じてくれるなんてことはないように感じます。こちらもそのうち我慢できなくなって、全てをことばで伝えます。
必要に迫られない部分は、人間ってすぐに退化してしまいます。耐性がないのは、やはり大人の責任でしょう。
自分を表現することの技術の習得はすぐにできると思います。むしろ現代っ子のほうが早いかもしれない。慣れてますから、そういうのに。点数を取りに行くことに。
でも、そこに日本語の美しさは感じないでしょう。頭の中に覚えたことを読み上げているだけでは、感じることは一生できないと思ってしまいますが。
瞬間芸しか見ないから落語が聞けないのか、落語が聞けなくなったから瞬間芸を求めてしまうのか。どちらが先なのでしょう。にわとりとたまごの世界ではないと思いたいです。
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