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お花屋さんになりたい姉


私はできるだけ素直でいたい、と思う。


素直でいたいと思っていても、いざなにかを文章にしようとすると、知らず知らず自分の気持ちではない方向に微妙にズレていくことがある。
カッターでまっすぐ線を切っているつもりがほんの少しでも斜めになっていると結果スタートラインとは大きく外れた位置にゴールしてしまうのと同じように、その小さなズレは私を大きく違う方向へ動かしてしまう。そこには私のちっぽけな見栄があるのかもしれない。結果わたしはとんでもなくつまらない人間になってしまうのだ。写真作品もSNSも、いいことを書こう、いいところだけを綺麗に見せようとしているものほどつまらないものはない。

私がこうして文章を書くことを続けてみようと試みているのは実は人生で二度目である。
私の祖母は今年の三月に亡くなってしまったが、祖母が亡くなる前の約一年半、私は週に二度祖母の家へ手伝いに通っていた。
介護というほどに大袈裟なものではない。祖母は少しずつ認知症が進んでいたが自力でトイレに行くことはまだできていたし、時々困った行動を起こすことはあるものの、徘徊したり暴言を吐いたりすることはなかった。私は朝昼晩の食事の準備と、薬を飲んだかどうかの確認、洗濯、買い物や掃除の手伝いをする。あとは祖母とコーヒーを一緒に飲みながら毎週同じ昔話しをする祖母に、うんうんと相槌をうつくらい。お風呂は週に一度訪問介護のヘルパーさんが入れてくれていた。

はじめのうちこそ写真を撮っていたが、だんだん祖母が撮られることを嫌がったし、私もなんだか飽きてしまったので、カメラを持っていくのはやめ(それでも時々こっそり持っていって撮ることもあったが)、誰に見せるわけでもない、無印良品で買ったノートに週に二度、文章を書くことにしたのだ。初めは祖母の様子を記録していたがそれもマンネリ化してくるのでその日作った料理だとか、読んだ本の感想だとか、祖母とはまるで関係のないことを書く日もあり、日々の備忘録となっていった。ただ、祖母の家で祖母の横で書くことに意味があると思った。

見せるつもりで書いていない備忘録なので面白くはないかもしれないが、繰り返しの作業というのは作品にし易いもので。いつかそれも作品にしてもいいかなと思ったこともあったけれど、今のところはまだする気になれていない。まぁいつか、何十年かたったあとでもいいやと今はそっと思い出の箱にしまってある。


さて今日は仕事が休みの日なのだが、現在の私は仕事に行きたくないという気持ちが脳内の全てを占めているため、休みの日が逆に辛いという意味のわからない時間を過ごしている。仕事のある日はもうどうせ辛いと諦められるのだが、休みの日は次くるであろう辛い日を想像し余計に辛い一日となる。案の定今日もしばらく布団から出られなかった。
夕飯はラーメンか、最悪あとでお惣菜を買いにいけばいいがせめて洗濯くらいはしないと…と重い体を起こしなんとか起き上がった14時15分。昨日はお風呂にも入っていないので漫画に描いたかのような寝癖をしている。あと15分もすればトイレを我慢した次男が慌てて帰ってくる頃だろう。しかも今日は夕方から息子の学校行事があり送り迎えをしないといけないんだっけ、ああなんて面倒なんだ。しかしこんなときばかりはどんなに面倒で一生寝ていたいと思っていても強制的に起き上がらないといけない状況にさせてくれる息子たちをありがたくも思う。

ふと、もし私たち夫婦に子どもがいなかったらどうなんだろうと考えることがある。私は子どものいない夫婦でとても魅力的な人間を何人も知っている。完全にないものねだりなのだが、そんな夫婦を羨ましいと思うことがよくあるのだ。

子どもがいなかったらとできることを考える反面、この子たちがいなかったら私は今日も布団から起き上がることすらできない廃人のような人生を送っているのではないかとも思う。そんな浅はかでつまらない考えは、結局のところダメ人間はどう人生が転んでもダメ人間なのだと私を落ち込ませることになる。


私の姉は保育士として働いている。
姉は子ども好きだ。姉にも一人息子がいるが、我が子だけではなく他人の子どももまるごと「子ども」という生きものが好きらしい。愛知県に住んでいた頃はよく私の息子二人を呼び出しプールやら公園やらに姉一人で連れて行ってくれたりしていた。平日も子どもたちにもみくちゃにされているのに、休みの日まで子どもとあそぼうと思えるなんてどうかしている。私の息子たちは半分姉に育ててもらったと言っても過言ではない。(ちなみに私は自分の子どもを愛してこそいるが、子どもはあまり得意ではない。やかましいし、生意気だし、あんな未知な生きものにどう接すればいいかよくわからないからだ。)

そんな姉が先日電話越しに「お姉ちゃん、お花屋さんになりたいな。」と言ってきた。まるで5歳児の「大きくなったら」的なテンションだ。保育士の仕事は激務で責任も伴う。そんな職場にふと疲れたようで「お花が好きだからお花屋さんになるのもいいなーって思って。お花も持って帰れそうだし。」と言っていた。理由もまるで子どものそれだ。しかし何かになりたいと思う理由はそんなものなんだろう。

こんなふうに理由なんてどっちでもいいのに、と思うことが私にはよくある。
過去にネット記事や写真雑誌のインタビューを受けたことがあるのだが、なぜ写真を撮るのですか?とか家族の写真を撮る理由は?と聞かれると、「撮りたいから」としか答えられなくて困る。カメムシをスプレーする理由ってなんですかと聞かれても「キモいから」としか答えられない夫もそれは同じだと思う。スプレーをする理由に「生命のサイクルを考えた結果」だとか「人間にないフォルムが恐怖心を与えることによって…」などと面倒な理由を色々付け足す人はいない。

それでも一応インタビューだからとなんだか自分でも何言ってんだかよくわからない理由を頑張ってつけてみると、必死に言い訳をしている気持ちになる。あれ、私ってこんな感じで好きなんだっけ、と。粘土でゾウを作る理由は「作りたいから」でいいはずなのに。どうやらオトナの世界では素直でいることもまた難しいようだ。

人間には、もっと感覚的であって言葉ではうまく説明できないものが意外にたくさんある。なんでもかんでもきっちり説明ができてしまえば、この世はなんの面白味もない世界になってしまうだろう。意味なんかないことがあるからこそ人間は面白い。ときには滑稽で格好悪いことこそ美しかったりするもんだ。

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