無駄な時間の過ごしかた
「正しい人」になることを拒む自分がいる。
先日「ターキークラブサンドはいかが?」という記事を書いた。言葉のもつ暴力性と希望について私なりに一生懸命書いた。どちらかといえば私はやると決めたことは一生懸命に、そして執念深くやるタイプだ。それにもかかわらずアップしてほんの数時間で削除。改めて読み返すとなんだか心地のわるい気分になったからだ。
こう見えて(?)私はひとつの記事を書ききるのに丸一日か、二日くらいかかる。なんのためにそんなに労力をかけているのか、全くもって意味などない。写真作品を作ることにおいてもまさにそうで、お金にもならないし(写真に関してはめちゃくちゃ減る)、時間もかかるし、誰かのためになるだとか、世界を変えたいだとかそんな強い信念などがあるわけでもない。そうした意味のない行動を繰り返しているまさにムダだらけな私の人生。
私は基本厨二病脳なので、日常生活においていつも引っかかりがある。そのおかげか私は作りたいと思うことや書きたいと思うことは基本尽きない。そのうちのひとつを引っ張り出し、細かく刻み過剰書きにする。付随するようなエピソードを記憶から探し付け加えていき、頭の中で整理をし箇条書きにしたものを文章にして起こす。それからタイトルを考える。順番はマチマチだがだいたいこのようにして文章を書いている。
そのように作った文章を削除するときはやはり後ろ髪を引かれる。なぜならそれに費やした二日間がまるで無かったことになるからだ。意味のないものを作るのにかけた時間もまた意味のないものになる。それもまた一興と半ば諦めてもいるが、冷静になると一体私はなにをやっているんだろうと思う。
記事の中で心地がわるいと感じた点は二つある。ひとつはうまくまとめようとしたにも関わらず、全然うまくなかった(そもそもうまくまとめようなどという煩悩が透けてみえて格好悪かった)こと。もう一つは「正しさ」に酔っているような気持ち悪さが見えたからだ。書いているときこそそんなつもりはなかったが、自分の言葉ではない言葉が並んでいるように思えて吐き気がした。
こんなことを言いつつも、私は人よりやや正義感が強い方だと思う。私の中には自分なりの「正義」がある。もしかしたらこだわりもちょっと強いかも。しかしそのこだわりによって理不尽に人を攻撃をする人の気持ちはまるでわからないし、己の正義感が行き過ぎて他人の人生や感情に干渉し強要しようとする人の気も知れない。それは私の正義に反する。
ただ一見まともに見えていても人間には誰しも心の奥底でとんでもなく悪い人格が潜んでいるとも思っている。「正しい人」も、環境が変われば、愛する人を奪われれば、人生が変われば、形は簡単に変わるんだろうと思うのだ。明日食べるお金が無くなれば他人から奪うかもしれないし、自分が殺される境地に立てば人を殺してしまうかもしれない。たまたま私は今温かい場所にいて愛する人がそばにいる人生を送っているけれど、もし茨の世界に放り投げられたらどう転んだっておかしくはない。テレビで毎日のように流れる犯罪のニュース、そこに写っているのは明日の私かも知れないのだ。
だからこそ理想的な言葉だけが並んだ文章や作品にはもれなく胡散臭さがついてくる。上手いだけの写真や、正確なだけのアート作品も同じで、そういったものを見ると感動より前にこれはこの人の本当の姿なんだろうか、と疑った目をもって鑑賞してしまう。私にはAIの良さがまるでわからないのだが、理由は似たところにあるのだと思う。正しいからいいとは限らない。その自問自答をした結果のデリートである。
こう考えると書くという行為はなんともコスパが悪いように感じる。
私は写真を撮っているが、写真を撮るという行為はお手軽でコスパがいい。コスパといっても高いカメラを使うとか、いい紙を使うからお金がかかるという意味ではなく、人生の限られた時間という中でのコスパだ。だってシャッターひとつ押すだけだもの。
ただ写真家界隈には石川直樹さんのように標高何千メールの山に登り写真作品を作り続ける写真家や、北海道の山でサバイバルをしながら狩猟の現場に立ち会い写真作品を作る石川竜一さんのようなザ・アンコストパフォーマンスな写真家もいる。写真家でありながら写真を撮ることがついでとも思えるほど命と労力をかけている。ちなみに私は二人の作る作品に憧れているし、大ファンである。
このように写真を撮ることにおいてものすごく労力をかけている人もいるが、もともと写真は基本ボタン一つ押すだけで撮ることができる。命をかけて山に登らなくとも、動物を銃で打たなくとも撮ることはできる。
そんな写真家たちに憧れて、写真作品は労力をかけた方が面白いのだと思い、山に登る勇気もなければ狩猟生活をする度胸もない私はせめてすべてセットアップで作った世界を作ろう、と試みたことがある。
息子を連れてラブホテルに行き、ファンシーな部屋で白タイツの息子の写真を撮ったり、カブトムシの幼虫を育てリングピローにのせて写真を撮ったり。まっ暗になってから公園へ行きピカピカのピンクのパジャマを着せた息子の写真を撮ったりしていた。
結果、道徳的にどうなのかと世間の目を気にしだし撮り続けることができなくなった。よってほとんどボツ。思い返してみるとコスパがいいはずの写真も作品にするとなると何度ボツになっていることか。どうやらコスパが悪いわけではなく私の要領が悪いらしい。はっはっは!
この時私は自分の作っているものは「正しくない」と思ってしまった。正しくあろうとする自分はまだ許せるが、正しく見せようとしたがる自分はどうしても許せないし、まったく面白くないというのに。あーあ、もう誰も見てくれなくてもいいから死ぬまでにもう一回はチャレンジしようっと!
私は聖人君主のようになりたいわけではない。ここで自分の気持ちを書くことでなんだか偏屈おばさんのようになっているかもしれないが、ただ正直でいれたらいいと思っているだけなのだ。目の前に困っている人がいれば助けるが、それによって自分が不幸になってしまうとしたら助けられないかもしれないし、遠くの人々の不幸も世界の平和もやはりどこか他人事だ。その残酷な無意識に意識を向けなければいいものができるはずはないと思っている。
しかし正しさは確かにつまらないが、同時に美しいとも思う。大切にしたい人、譲れない信念、誰かを想う優しさはきっと正しく、美しい。
私の中には正しい人(つまらない人)になりたくない自分と、正しい人(美しい人)でいたい自分がいる。
こんな天邪鬼で両極端な感情があるのは、人間は必ずしもすべて正しくはないが、正しく(美しく)いることを放棄することは生きる希望を捨ててしまうのと同義だと思っているからなのだろう。
おっとこんなことをしているうちにまた無駄な三日間を消費してしまった。こんな調子なら人生はあっという間に終わってしまいそうだ。