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そうだ、牧場で働こう

豊かさの基準って人それぞれなんだなぁと最近しみじみと感じている。

この世には命をかけて山に登る人もいれば、「いいね!」をたくさん得るために孤軍奮闘する人もいる。他人に感謝されることで満たされる人もいれば、なにをしても満たされないという人もいるだろう。

夫は仕事が生き甲斐の人間だ。仕事においての自分の知識を広げて、どんどんスキルアップしたいらしい。お金持ちになりたいという願望もあるし、昇格して認められたいという欲求もある。

対して私は仕事にやり甲斐いなんてこれっぽっちも求めていない。いかに責任のないポジションで空気のように過ごすかに日々精神を研ぎ澄ませ生きている。お金持ちになりたいかなりたくないかでいえばなりたいが、買ってもいない宝クジでも当たらないかな〜なんて考えてしまうくらい他力本願で生きているクズタイプだ。

そんな私はお金への頓着もあまりない。ハイブランドの服にもさして興味がないし(ほとんど毎日同じ服を着ている)、車は動けばなんでもいいと思う人間だ。
美味しい食べ物は好きだけど特にグルメなわけでもないし、ギャンブルもしない。
遣うお金はといえば本を買ったり、美術館に入る入館料か、写真を印刷するためのインク代や紙代くらいだ。幸か不幸か交友関係は狭く浅いので、交際費と呼ばれるものもほとんどかからないし、お金がないときは無料でみることができるギャラリーをぐるぐる巡り、図書館で本を借りて帰ってくる。

そんな我が家の家計は全て夫にお任せしている。週四日の深夜パートのお給料もすべて夫に託しているので、私は夫の監視が行き届くクレジットカード(コンビニに行き過ぎると忠告を受ける)と、本当にたまーにあるかないかというレベルの写真のお仕事でいただいたお金で日々暮らしている。

もちろんお金がないということは恐ろしい。今は健康でなんとかその日暮らしを続けているが、働けなくなる日がくることを想像するとそれはそれは恐い。そんな不安も持ちつつも夫がせっせとお金もちになる準備をしてくれているおかげで私はせっせとあそんで暮らせているというわけだ(最低限働いてはいるけれど)。

夫はといえば今の職場に就く前に小売の仕事をしていた時期があったんだが(※嫌われる素質参照)、その時の夫はこう言っていた。

「人生って仕事だけがすべてじゃないんだよね。家族との時間とか、今しかない子どもたちとの時間を大事にするべきなんだと思う。」

普通の父親であれば間違いなく素晴らしいセリフだが、私の夫の口から出るのだからそれはそれは驚いた。いやいや、そんな人間じゃないでしょうが。というか、困る。それは私のポジションであって夫には求めていなかったものだ。
今までも家族のために働いてくれてはいるもものの、「親戚のおじさんか」、「歳の離れた長男」ポジションで私たち家族の一員だった夫。「オムツを買ってきて!」と言えばオムツにサイズがあることも知らず家で見たことがあるパッケージのものをテキトウに買ってきた夫が。スーパーで離乳食の瓶をみて私が「懐かしいね、これ」と言うと「なにこれ?猫のごはん?」と返した夫が。
今思えばそのときの夫は必死に自分自身に言い聞かせていたんだと思う。「なにもやっていない気がする」人生でも、家族のためにと自分を押し殺していたんだろう。

素晴らしい父親宣言をした夫だったがやはりそれは本心ではなく、逃げの一手。生き甲斐を失った夫はハリボテな言葉虚しくみるみる弱っていく。あんなに仕事のことを生き生きと話した夫が、上司の愚痴や仕事の不満ばかり話すようになり、食事もろくに喉を通らない。それは私の愛する夫の姿ではなかった。

重ねて言うが私の夫は一に仕事二に仕事、仕事の喜びが己の喜びという人間である。倍返ししたい相手でもいるのか、仕事人間を描いたドラマ「半沢直樹」を何度も繰り返し観てはうっとりとし、普段漫画以外の本はほとんど読まないが、自己啓発系の「覚悟の磨き方」だとか「リーダーの仮面」などという本は読むらしい。お金もないのに「スーツはオーダーじゃないと」と言い、ムカデかと思うほどピカピカとしたビジネスシューズを何足も持っている。ラピュタの呪文を全部サラで言え、「怖い、怖い、ひ〜」と口に出しながらバイオハザードをする(怖いならやらなければいいのに)。子どものために買ってきたプリンも食べちゃうし、授業参観だって旗当番だってもちろん参加しない。口はうまくないが、なぜだか人に好かれ、子どもたちから好かれる。不器用だけれど素直でとても心優しい夫。

転職し、生き甲斐を取り戻した夫は俗に言う「いい父親」ではなくなったけれど、今とてもツヤツヤとしている。子どもたちのことなんてお構いなしで休日に仕事の靴をピカピカに磨いている姿を見るとよかったよかった、これぞ私の愛する夫だ、とホッとした。


さて私にとっての「豊か」とはなんだろう。
好きなことはそこそこある。本を読むことも好きだし、アート作品にふれることも、自分で作品を作ることも好きだ。こうして文章を書くことも嫌いではないと思う。

ではあと一年で死にます、と宣告されたらなにをしたいと思うんだろう。

海外に行ってみたい?歴史に残る写真作品を作りたい?私の作った作品を、私が生きた証を世に知らしめようと躍起になるのだろうか。

少なくとももうちょっとで死んでしまうのであれば今の仕事は辞められる、ストレスから解放される、と心を撫で下ろすことしか今は想像ができない。

写真が売れたらいい、写真で食べていけたらいいなとは思うが、かといって売れる写真を作ろうだとか、需要の高いであろう写真を狙って撮りたいとどうしても思えないのだ。

私の父親は胃癌で50歳で亡くなっているが、父は仕事ができなくなり食べることもできなくなっても「パチンコへ行くこと」と「煙草を吸うこと」をやめなかった。
健康だったときから毎日のようにパチンコに行き煙草を吸っていた父だが、どんどんと痩せ細り姿は変わっていく一方で父の日常は変わらなかった。私はそんな父を見ていいなぁと羨ましく思った。本人からすればそれしかやることがなかったのかもしれないが、私はそのときの父の姿に、淡々と繰り返す日常に、美しさと尊さを感じた。

そう考えると私にとっての「写真」は「パチンコ」なのかもしれない。
当たるかわからない、寧ろ当たらないことをどこかでわかってはいるけれどやめられない。かといってパチプロになって稼ごうとはならず、父の心の拠り所として「パチンコ」があるように私には「写真」があるのだとも思う。お金は減っていくけれど。

畳の部屋で寝っ転がりながら思ったことを徒然なるままに書いて、好きな本を読んで、作りたい写真作品を作る。あとは職場で透明人間としてのポジションを確立さえできればもう私は「豊か」だ。

今の職場も少なくとも三ヶ月は続けようとは思っているが、もしそれでもだめだったら牧場で働いてみたいな、なんてことも思っている。逃げかな、逃げかも。もっと辛いかもしれないし、もっと怖い先輩がいるかも。この前まで仕事に行くことは苦痛でもなんでもなく、むしろ気の知れたパートのおばちゃんズと楽しく働いていたはずなのに、もはやこの世にいい職場ってあるの?とさえ感じてしまっている。

早く私の「豊か」を取り戻せたらいい。

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