許された空間
「ぼく、調理クラブに入る。」
長男のその言葉に私は喉の奥の方で小さく「えっ」と発した。
小学四年生の長男は運動が得意だ。飛び抜けて足が早いわけでもないし縄跳びの達人というほどでもないが、クラスの中で言えば「できる方」に入るのだと思う。
そんな長男は5歳の時からダンスを習っている。生まれ持ったリズム感と真面目な性格で家でも練習は欠かさないので、習ったことはスルスルと吸収していく。もともとダンスをはじめたのも本人が習ってみたいと希望したからであり、私も夫もダンスのダの字も踊れない。息子が習い始めなければダンスというパリピなイメージからして私の人生とは交わることのない世界だったろうとも思う。しかし息子の踊っている姿は生き生きとしていて、素人目で見てもとても格好いい。私も夫もそんな息子を自慢に思っている。
四年生からクラブ活動がはじまることは聞いていた。息子の学校の「クラブ」は週に一度あるかないか程度の活動らしく、授業後にそれぞれのクラブ活動を一時間程度行い帰宅するらしい。
地域差かもしれないが私の子ども時代はそれを「部活」と呼んでいた。基本毎日授業後に活動があり、部の顧問はその学校の先生たちで割り振られていた。先生目線で言えば専門外であろうことを業務後に毎日こなさねばならない大変な時代であり、親目線で言えば我が子がほぼ無料で勉強以外の経験を積むことができるラッキーな時代だ。ちなみに私はソフトボール部だった。
いよいよクラブを選択する時期となり、そこそこ活発でダンスも得意な息子はてっきり運動クラブを選ぶと思っていたのだ。サッカークラブや野球クラブ、ダンスクラブだってあるのに、息子にはそれらはピンとこなかったらしい。曰く「料理ができるようになりたいし、食べれるから。」とのことだった。なんだか似たようなセリフを最近聞いたぞと思いつつも(※お花屋さんになりたい姉参照)、食いしん坊で可愛らしい理由に少し顔がほころんだ。
「調理部…」
一瞬、ほかのクラブにしたら?と言いかけた。が、声に出す前に思い改めた。なぜだめなんだ?料理のできる男の子になることも、食に興味をもつことも大変素晴らしいではないか。そもそも法に触れることでもなければ息子の選択を「だめ」という権利は私にはない。なぜ一瞬でも否定する気持ちになったのか。
日本には「陽キャ」と「陰キャ」という人間を二分する言葉がある。陽気なキャラクターという語源からも分かるように、「陽キャ」は活発で明るい性格を意味し、反対に「陰キャ」は根が暗く、内向的な性格を意味する。コミュ障の私はまさに「陰キャ」に属する。
多様性さまさまな時代もあり、それもまた受け入れられるようになってきており、私のように「陰キャ」であることを逆に誇りに堂々と生きることもできるようになってきてはいるものの、陰と陽の文字通りやはり「陽キャ」は「陰キャ」より優れているようなイメージもある。ちびまる子ちゃんで登場するサッカー少年の「大野くん」と「杉山くん」はまさにそれを象徴する。決して調理部が「陰キャ」であるわけでは全くないが、つまり私は活発な子どもの輪にいない長男を心配する気持ちがあったんだと思う。そんな自分の思考を恥じた。私は息子に大野くんのようになってほしいとまでは思っていなくとも、まるで永沢くんや藤木くんのようにはなってほしくないとでも思っているのだろうか。ばかばかしい。永沢くんや藤木くんのキャラクターあってこそのちびまる子ちゃんではないか。あの二人の実に人間らしい生き様こそが面白く美しいというのに!
私は本を読むことも好きだが、美術館やギャラリーに足を運ぶことが大好きだ。その理由のひとつに、そこが「許された空間」であることが大きくある。
完全に偏見なのだが、アート好きな人間は社会不適合の人間が多い。アートが好きと言いながらも社会にしっかりと適応している人間は「アートを嗜むオシャレな自分」が好きなだけであって大概は真のアート好きとは言えないだろう。スタバでコーヒーを片手にMacBookをひろげている人間とだいたい同じ心理だ。ちなみに私はアート好きの立派な社会不適合者である。
さて、「許された空間」とはなにか。
普段日常に忙殺され気がつきにくいが、現実の世界を生きる私はしばしば息がしにくい、息(生き)辛いと感じることがある。この世は他人への目が非常に厳しく、常識とやモラルと言われるものに人々は当たり前に囚われている。優生思想が無意識に蔓延っていて、空気の読めない人間は弾かれ、出すぎた杭は打たれる世界。
そんな世間では「許されなかったもの」もアートの中であればスパイスとなる。寧ろはみ出ればはみ出るほどいいと言わんばかりの世界がアートである。しかしさすがの社会不適合者が集まるアート界隈(※偏見です)。作り手もやはり現実世界でうまく消化できない各々の葛藤があり、そしてそれらを作品で消化する人も少なくない。そんなまるで他人の見てはいけないプライベートを覗き見しているような、曝け出した空間が私を安心させるのだ。人間の生々しく濁った感情や、どこか滑稽で笑ってしまうような剥き出しの姿を見ることで、本来人間ってこうだよなぁ、と安心ができるのだと思う。常識では図り得ない思考も歯切れの悪い矛盾さえもアートになる。どう受け取るも自由で、綺麗に区分けされることもない、もっと曖昧でもっと寛容な「許された空間」がそこにはあるのだ。
アートを鑑賞することと似ても似つかないようだが、祖母の家もまた、私にとって「許された空間」だった。日々の生活に疲れた日も、自分がどれだけダメ人間か思い知った日も、祖母の家の香りに包まれると途端に許された気持ちになった。そこにはすべてを包み込んでくれるような生温かい香りがあった。
祖母は実の娘、つまり私の母から「ダメ人間」と揶揄されるような人間だった。祖母の時代では全く珍しくなどないが、専業主婦で働きに出たことのない祖母のことを「世間知らずの外面だけがいい悪魔」などと言っていた。ひどい言われようだが娘だからこその憎まれ口なのだろう。確かに祖母は専業主婦と言っても掃除だけではなく料理もまた得意ではなかったし、繰り返される昔話は愚痴に近いようなものばかりで、祖母自身も自分の人生に誇りを持っているようでもなかった。しかし祖母のそのダメさ具合も私を安心させた。祖母は自分でも「ばあちゃんはなーんもできんけど」と言っていたが、孫の私にはとても優しかったし、祖母の存在こそが私には本当に、心から十分だった。そんな祖母と祖母のずっといた家。古い木と、埃とカビと、お味噌汁の香り。そこは確かに私の「許された空間」だった。
前世でよほどの大罪でも犯したのだろうか、私はいつもどこかで許されたいと思っている。そして私を許してくれる人に好意を持ち、許される空間であるアートや祖母の家の香りにホッとする。
そんな私も愛する息子のこととなると心配が故につい世の中のくだらない常識を充てがってしまう。ダメ人間から生まれたはずのこんなに素晴らしい息子のそのままを愛してやらないでどうするのだ。
そんな私自身ももう少しだけ世界が私を、他人を、許してくれる世界になればいいと願い作品を作っている。勉強が不得意でもいい、身体が不自由でもいい、少しくらい他人に迷惑をかけたっていい、自分にも他人にも許容できる範囲をじんわりじんわりと広げていければいいなと思う。私のように息辛いと感じる人が、愛する家族が、なにより私自身が呼吸のできる世界になるといい。
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