【小説】スピカの歌
音芽(おとめ)から私たちに召集がかかったのは、たぶん解散して以来じゃないかと思う。そうは言っても私たちは、年に一回は必ず会っていた。スピカの命日に合わせて、だいたい私か、のりこが声をかけた。音芽から連絡してくるのは珍しいことだった。
「みかん」
部屋の隅の暗がりから名前を呼ばれてはっとした。
呼び出された音芽の自宅は、だだっ広いワンルームの半分が生活スペースで、半分がスタジオになっている。
グループが解散した後、音芽は作曲家としてなかなかの成功を収めていた。
グループ時代から元々音楽好きで、関わった音楽関係者に熱心に指導を受けて作曲も勉強していたから、私たちもみんなその成功を喜んだ。音芽が最初に楽曲提供したのが、ソロ歌手になったスピカだった。
「今日はのりこと一緒じゃないの?」
音芽は暗いスタジオスペースから、明るい生活スペースに出てきて、少しずつ輪郭を明らかにする。
アイドルだった頃は、大人っぽい美貌と安定した歌唱力が人気だったけれど、今や長いウェーブの髪は適当に括られ、綿シャツとジーンズに眼鏡。いかにもクリエイターらしい姿でちょっと笑える。
「のりこは今日バラエティの収録。終わったらすぐ来るってさ」
「相変わらず仲良し?」
からかうでもなく、落ち着いた口調で聞く音芽のこの感じも相変わらずだなあ、と思いながら、微笑んで「うん」と頷く。
私とのりこはグループ時代から付き合っていて、今は一緒に暮らしている。グループのメンバーもみんなそのことは昔から知っていた。
タレントとして今もテレビで活躍しているのりこに対し、私は元アイドルのライターとしていくつかのウェブ媒体で連載を持って、時々それが本になったりしつつ、表に顔が出ることはほぼなくなった。
業界では、のりこの私生活に関して「身の回りのことをやってくれる女性と暮らしているらしい」という感じで把握されているそうだけど、それ以上探られることもないくらいに、のりこも若くないタレントになった。
ピンポーン、と玄関チャイムが鳴った。
音芽がテーブルの上のインターホン子機のボタンを押して、「はい」と答える。
「こんにちは、まいやです」
きちんとした口調で、トーンの高い声。
「どーぞお入り」
「はーい」
入ってきたまいやは、顔を見るなり「久しぶり〜!」と私と音芽にハグする。
「これちょっと、みんなで食べようと思って持ってきたんだけど」
半透明の薄くロゴが入った袋に白い菓子箱が入っているのを、音芽に差し出す。
「あー私、手土産とか何も考えてなかったわ!」
「いーのいーの、気にしないで。2人とも座って。まいやありがとう」
最年少の妹キャラだったまいやは、今はアパレルブランドを立ち上げ、一児の母でもあるしっかり者だ。
音芽が紅茶を淹れてくれている間に、チャイムが鳴ってのりこが到着した。
これで全員揃った。スピカを除けば。
グループが解散したのは、ちょうど10年前。私と音芽が25、のりことスピカが24、まいやが23になる年だった。年齢幅が狭いグループだった私たちは、年齢を理由にあっけなく事務所から終了を告げられて、8年間の活動に幕を下ろした。
それぞれが自分の道に進む中で、スピカがソロ歌手になったのは、彼女の才能からすれば誰も疑問を抱くことのない流れだった。
けれどスピカ自身としては、音芽と一緒にいるためという理由以外なかったんじゃないかと、私は思っている。
スピカはアイドルになる前は、地元でけっこうやんちゃをしていたらしい。スカウトされてグループに入ったけれど、結成当初はヤマアラシのように他のメンバーを警戒し、ヤンキー丸出しで尖っていた。当時のスピカの様子を語ると、いまだに私たちの笑いの種になってしまう。
そんなスピカが最初に心を開いたのが音芽だった。口数は少ないけれど、誠実で優しく温厚な音芽に信頼を置いたとたん、スピカは人が変わったように真面目に活動に取り組むようになった。
スピカの素質は特別だった。
もともと美しい子だった上に、歌もダンスもとんでもなく覚えが早く、やればやるほどめきめき伸びた。ちょっと聞いた話では、IQがものすごく高くて、そのせいで逆に学校に馴染めず不良少女たちとつるんでいたという。実際スピカは何をやらせてもできないことはないような少女だった。
グループでの一番人気は当然スピカだったし、メンバーも、嫉妬も起きないくらいそれに納得していた。
スピカにはスター性があった。そのスター性に、私たちも魅了されていた。人気アイドルとなっても、知らない人に会うと警戒心の塊のヤマアラシに戻ってしまう彼女が、私たちと一緒にいればやんちゃ娘の顔でけらけら笑う。それだけでみんな嬉しかった。
そして、スピカはいつも刹那的だった。5年後、10年後の未来なんてあるとも思っていないかのように、その日一日一日を全力でアイドルし、全力で仲間を思い、全力で音芽を慕っていた。
音芽も、自分を世界のすべてのように慕うスピカを受け止めて、深く愛しているのはメンバーの目にも明らかだった。2人の関係は完成された絵画のように素晴らしかった。
きっと当人たちは、その関係を恋愛という名では呼んでいなかったと思う。あるいは名付けることさえできない尊い絆だったかもしれない。普通に恋をして、パートナーになろうと決めた私とのりことは違うバランスで、2人は思い合っていた。
音芽の作った曲をスピカが歌う。解散後のその選択は、それ以上ないくらい理想的なもののように思えた。
それなのに、その選択から一年後、スピカはマンションの窓から消えてしまった。
「じゃあ今日はほんとに音芽ちゃん発案なんだ?」
まいやが、自分が持ってきた手土産のワッフルを口に入れながら聞く。
「てっきりリーダーと相談したのかと思った」
「いや、何も聞いてないよ」
リーダーとは私のことである。
「急に呼んだのに、集まってくれてありがとう」
音芽は穏やかな声でそう言うと、
「ちょっと、頼みたいことができたんだ」
テーブルの上で手を組んだ。
「みんなに歌ってほしい曲があるの」
……ぽかーん。擬態語をつけるならぽかーんである。
音楽活動をしている音芽や芸能人ののりこはともかく、私とまいやは、表舞台から退いて10年だ。私はもともと歌の上手いメンバーではなかったし、今更歌うなんて考えたこともない。
「むりむりむりむりー!」
と声を発したのは、のりこだった。
「歌なんてもう全然やってないし!いまさら歌手活動とか、事務所も絶対反対するし!」
のりこが無理なら私なんてもっと無理だ。そう言うと、まいやも「右に同じく!」と手を挙げた。
「顔は出さなくていいのよ。歌手っぽいメディア広告もしなくていい。音源だけ作って世に出したいんだ」
音芽は静かに言う。
「……なんでそれが、私たちなの?」
音芽の曲を歌いたいアーティストなんて、たくさんいるだろう。ただ音源を発売するだけなら、もう素人同然の私たちに頼む理由は……
「この曲は、スピカに作った曲だから」
そう言って音芽は立ち上がると、スタジオスペースに向かい、暗がりになっていた部屋半分の灯りをつけた。ピアノの上から手に取ったのは、重なった譜面紙のようだった。
「ずっと眠らせてたけど、歌ってもらうなら、みんなしかいないと思ったんだ」
「……10周忌が来るから?」
まいやが口を開いた。音芽は黙って首を横に振る。
「この10年、毎年のりこやみかんが呼びかけてくれて、スピカの話をタブーにしないで、楽しかった思い出をいっぱい話す時間を作ってくれて、とても感謝してる」
のりこは「ううん」と返す。私は音芽のその続きを待っていた。
「でも、私たち、スピカについて大事なことを話してこなかった」
「……それは……」
きっとその時、3人とも同じことを思った。スピカがなぜ死んでしまったのか、という話だろう。
音芽は私たちよりも詳しく何か知っているのかもしれない、と思っていたけれど、聞かなかった。聞けなかったし、聞かなくても何となくわかるような気もした。
「……スピカは、魅力も人一倍強かったけど、人一倍壊れやすい子だったのかもね……」
のりこが呟く。
「でも、そうなのかな」
小さいけれど、はっきりした声で、音芽が返した。
「壊れそうになったこと、私たちもあったよね。きっと」
私たちは、戸惑いながら音芽を見る。
「宮内しのちゃん」
音芽の口から、その人の名前が出たのは意外だった。
「……みかんも彼女の事件について記事を書いてたよね」
音芽が言いたいことが、少しずつ見えてきた気がする。私は、何か重たいものを飲み込むように頷いた。
宮内しのさんは、現役の人気アイドルグループのメンバーで、現在脅迫・暴行事件の被害者として話題になっている人だ。
以前から手紙などで脅迫を受けていた彼女は、自宅付近で口を塞がれ「グループをやめなければ殺す」と直接脅された。しかし、それが事務所関係者の息子による犯行であったために、事務所が隠蔽しようとしたらしい……というのが、一般に認識されている事件のあらましである。
本人が告発したことで明らかになり、数々の証拠が出てきているが、のらりくらりと自己弁護を繰り返す事務所にうやむやにされそうになっているのが、今現在。
私も事件を知り、居ても立っても居られない気持ちで、彼女の証言がいかに信憑性が高いかとか、法律のこととか、海外メディアでも問題視されていることなどを、必死で調べて、連載を持っているメディアで記事にしてもらった。
しかし、多くの人が彼女の告発の正当性を確信し、見過ごせないと声を上げているのにも関わらず、なぜか、うやむやにされそうなのである。
私も記事を書いて擁護する以上にできることが見つからず、途方にくれていた。権力って、正義がこんなにもまかり通らないほど分厚い壁だったのかと、愕然とした。
音芽が挙げたのは、そんな現役アイドルの名前だ。
「……でも、私たち前から知ってたよね。こういう酷いことが世の中にはいっぱいあるって」
音芽は言う。
「アイドルになるってこんなことを我慢することだったの?って、何度も思った」
そうだ……。
みんなと歌って踊るステージは、何ものにも代えがたい素晴らしい時間だったし、ファンの中には、忘れられないくらいの思いやりをくれた人もいる。
でも、頭が真っ白になるくらいショックなこともいろいろあった。
「……まいやが着替えを覗かれたことがあったよね」
そう言ったのはのりこだった。
「ライブハウスのスタッフにさ。私たちみんなめちゃくちゃ怒ったし怖かったけど、マネージャーは確認しとくって言って、そのままになっちゃったんだよね」
「……そうだよ、のりちゃんのオタクのつきまといに、事務所が全然対応してくれなかったこともあった!」
まいやが思い出したように憤慨する。のりこは静かに苦笑する。
「私のファン、マニアックな分、強火な人が多かったから」
「出待ちして帰り道途中までついてきちゃったやつを、私たちで必死で巻いて帰ったのに、事務所の人に言っても何にもしてくれなくてさ」
怒りのこもったまいやの声に、私も同調して、当時の怖さと悔しさが、ふつふつと胸に込み上げてきた。
「私は、握手会で怒鳴られた」
思わず口をつく。
「いきなり、お前ふざけんなよ!って怒鳴り出して、男の人の大きい声だし怖くて……」
音芽が頷きながら、
「覚えてるよ」
と言った。まいやも続く。
「あの人出禁になったの、2回くらいだったよね。メジャーデビューしてレコード会社変わったら、そんなの対応しきれないって言われて、なんでって思った」
のりこが眉間を寄せる。
「あいつ、あの後何回か前方で観てた時あったよね……。みかんが脅えててつらかった……」
「私とスピカは、えらい人に体触られたことがある」
「え!?」
それは初耳だった。思わず音芽の顔を見る。
「私かスピカのどっちかをCMに起用するってことで、広告会社の人に会いに行ったの。まあほとんどスピカに決まってて、私は保護者代わりで呼ばれたと思うけど」
当時、単独のオファーはスピカか、バラドルとして頑張っていたのりこくらいにしかなかったけれど、スピカは一人で動きたがらないので、事務所から音芽に付き添いを頼むことが時々あった。
「名刺くれたと思ったら、どれどれとか言って、空港の身体検査みたいに、両手で上から下までぽんぽんぽんって」
「胸も?」
「おしりも!?」
まいやとのりこが堪らずたたみ掛けるのに、音芽は黙って頷く。
「私も、ショックで何も考えられなくなったけど、スピカは震えてしゃがみこんじゃって。結局CMの話はなくなって」
私たちは、ふいに押し黙ってしまう。
はたして、スピカが特別壊れやすい、繊細な子だったんだろうか。私たちだってあの頃、いくらかは壊れていたんじゃないだろうか。
「ごめんね、実際のところ私、みんなが知ってる以上のことは、そんなに知らないんだ」
私たちは音芽の言葉に、顔を上げる。
「スピカは遺書もメッセージも、何も残さなかった」
音芽はそう言うと、ピアノにもたれていた腕を持ち上げて、私たちのいるテーブルの方に再び歩いてきた。
「でも、私だって、死んでたかもしれないと思うの」
手に持っていた楽譜を、テーブルにそっと置く音芽。
「私たちは、明日やりたいこととか、来週の予定とか、将来の夢とか、そういうことで思い留まれる。でも、スピカは今日本気で死にたいと思ったら、今日死んじゃう子だった。それだけの違いだったんじゃないかな」
私たちが今まで語ってこなかったこと。スピカについての大事なこと。スピカだけじゃない。これは私たち自身の話であり、今を生きるたくさんの女の子たちの話だ。
「こういう、今話したみたいなことを、みかんに歌詞にして、この曲につけてほしい」
いきなり音芽に名指しされて、「えっ私が!?」と素っ頓狂な声を出してしまう。
「頼むよリーダー。私文章全然だから。今までも歌詞は全部人任せだし」
「えー、今話したことって……」
ああ、でも……いくつかの言葉が、頭に明滅するように浮かんでくる。
(いつだって女の子たちは闘ってきた。……だからあなたが助けを求める時は、絶対に見捨てたりしない。なんだってできる。……スピカは、ずっとあの空にある)
……書いてみたい、かもしれない。
「タイトルは……」
音芽が言う前に、
「『スピカ』でしょ」
まいやが言うと、
「当然」
と、のりこが返す。
「2人とも、やってくれるんだ」
笑顔を見せる音芽。
「断れるわけない。7歳の娘がいるんだよ、私」
「私も、仕事で会うアイドルちゃんたちに申し訳が立たないからね」
「みかんも……?」
音芽の視線が私に向く。
「……歌は、音芽も歌ってよね。私音痴なんだから」
私たちはこれから、一緒に歌を作り、10年ぶりに声を合わせて歌う。それがどれだけの意味を成すかはわからない。ただ、これまでだって私たちは抗いながら生きてきたし、ダメでもまた抗い続けるんだろう。
それに今は、一緒にやろうって言ってくれる仲間がいる。
ずっと歌ってこなかったから、昔のように高くハリのある声はきっと出せないだろう。けれど、30代の私たちだからこそ、あの時出せなかった声がきっと出せる。
その歌は、スピカへ捧げる歌であり、すべての女の子を応援する歌であり、ままならない世の中にノーを突きつける歌でありたい。
作・宇井彩野
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