【映画レビュー】ラフィキ:ふたりの夢
道の向こうにいつも友達といるあの子。ちょっとかわいいな、ステキだよね。気付くといつもこちらを見ている気がするんだけど、もしかしてあの子も、仲良くなりたいと思ってくれているのかな…
『ラフィキ:ふたりの夢』の主人公「ケナ」と「ジキ」はこんな風に、当たり前のように惹かれ合いはじめます。
それはさりげないほど平凡な、不特定多数の誰かの美しい記憶を呼び覚ますような、恋のはじまり。
青春の真ん中を駆け抜けるように恋する2人は、生命力に溢れカラフルで眩しい!演じたサマンサ・ムガシア、シェイラ・ムニバの魅力によるところも大きいと思いますが、こんなにも「イメージ上の女性像」「イメージ上のレズビアン像」から自由な女性たちの同性愛ストーリーを、映画館で観られることを幸せに思います。
…いや!?
いやいやいや!?
それってそんなに幸せに思わなきゃいけないこと?
「こうあるべき」イメージの抑圧
ケナとジキは、ケニアの首都ナイロビに暮らすティーンの女の子。2人はいつも世間の「こうあるべき」「これが当たり前」とされるイメージに抑圧されています。
それは、成績優秀な娘の幸せが「看護師になって医者と結婚すること」と信じている親であったり、男女で仲が良かったら恋人になるべきと考えている人々だったり、同性愛を禁じる国の法律であったり、同性愛者への暴力であったり。
ケニアでは今も実際に同性愛は違法で、禁固刑に処されることもあるといいます。この作品も、本国ケニアでは上映禁止となりました。
ケナとジキの恋の始まりは、映画としてはドラマ性に欠くといってもいいくらい、単純で普遍的でした。ただ、2人が受ける抑圧と攻撃だけが、「普通の恋」と違っていました。
ステレオタイプの「女性」「レズビアン」
女性と性的マイノリティは(に限らずほとんどみんなかもしれませんが)、現実世界でもいつも「こうあるべき」「これが当たり前」とされるイメージに抑圧されています。
そのうえ創作物ですら、女性や性的マイノリティがステレオタイプのイメージを押し付けられている作品にかなり高確率で出会いますよね。
一体それは誰の想像上の女なんだ!?誰の想像上のレズビアンなんだ!?と叫びたくなったこと、ありませんか?私はものすごくたくさんあります。
ケナとジキはずっと「イメージ上の女性像」でなく、現実感のある少女、女性として、スクリーンに存在し続けます。
創作物において、人物がステレオタイプにはまっていないことは、一般的には「面白い作品の基本条件」とも考え得るようなことです。
しかしこの世の中では、女性の登場人物に関しては男性よりもはるかに、ステレオタイプから脱却させられていない作品が多数を占めています。
現状の上澄みだけ見て「女主人公の作品はつまらない」と言う人もいるくらいです。
作中描かれる同性愛差別は苛烈で残酷です。
それでも、ケナとジキは自分らしく希望を追い求めます。
2人が「女らしく」でも「レズビアンらしく」でもなく「自分らしく」スクリーンに存在していること、それ自体がこの作品の希望です。
文・宇井彩野