般若心経は悟りの境地(プチ奇跡3)
「今日はちょっと変わったことがあった」とほぼ毎日主人に話しています。
そんなこと話したら人から「変なやつ」と言われるやろーから、主人にしか言わなかったのです。
そしたら「それをブログに書いて行ったら?」と主人から勧められたので書き始めました。
しかし、今記事は書こうとしてから、何日も書こうとして書けない、次の日も書こうとして書けない、という「非常に難産」な記事だったことを前置きしておきます。
毎朝のおつとめ(お経)
ほぼ毎日午前中(お昼になる時もありますが)お経をあげます。
独身時代一人暮らしをする時実家から祖父の形見の観音様をかりて、玄関に置いて毎日二回朝夕に南無阿弥陀仏と「なにごともありませんように」と「なにごともありませんでした、ありがとうございました」をお祈りすることから始めました。
いつからか「般若心経」もあげるようになり、空海さんとのご縁ができるようになってから、五大明王の真言もあげるようになりました。
「般若心経」を翻訳した三蔵法師玄奘さんの事を調べて動画を作成するようになってから、「般若心経」を漢語訳した玄奘さんの裏話を知りました。
玄奘さんは、皇帝との複雑な関係、怒り憤懣な気持ちもありながらその感情を越えて、臨終間近の皇帝の無事祈願の祈りをこめて「般若心経」を漢語訳されたことを知りました。
参考動画
玄奘さんの「般若心経」を訳された時の気持ちを知ってから、「般若心経」を唱えると、不思議な現象が起こることがあります。
不思議な現象1「観」
お経のはじめは「観自在菩薩」です。
観。というのは自分がいて、自分の周りの世界を感知する感覚のことです。
ある日、「観」と言ったとたん、それが「かんーーーーーーーーーーーー」
と音がどこまでも伸びました。
心象風景は、なにもないところに自分がいて、五感のすべてがとぎすまされていました。
白い風景で、どこまでも広がる地平線に、心洗われるようでした。
不思議な現象2「自」
続けて「自」と言った時、「じーーーーーーーーーー」とどこまでも音が伸びました。そして、意識が外側ではなく自分にむき、心の感情も思いもクリアーで、頭の思考も研ぎ澄まされていました。
何か、とか、誰か、と比べるというようなことはなく、よく感じている「こんな私ですいません」みたいな感覚も消えていました。
ただ自分がいるだけ。
観の次に自だから、外も内もクリアーなんですね。
不思議な現象3「在」
その次に「在」と言った時は「ざぁあーーーーーーーーーーーいぃーーーーーーー」と音が伸びました。
その時に感じたのは「存在感」です。
なにもないところに、自分がいて、そこにただいるという感覚でした。
「あぁ、私、昔から『ここにいていいの?』と思って生きてきたところあるけど、もうここに存在しているんだから、ここにいていいんだよ。」
と思いました。
ゆるぎない自己存在の中心点のようなものを感じました。
不思議な現象4「菩薩」
「菩薩」というのは「観音菩薩」などの「菩薩」ですが、
昔は悟りを開く前のお釈迦さんを「菩薩」と言ったことがあります。
(悟りを開かれて「如来」となられるそうです)
それだけでなく、出家して修行している僧侶も広い意味では「菩薩」の中に入るそうです。
「菩薩」と言った時、色々な仏様が自分のまわりに出てこられて輪になっておられるような心象風景が浮かびました。
それだけで、もうその時はいっぱいいっぱいになり、その日は「般若心経」はそれ以上あげることはできませんでした。
それ以後、時々お経をあげていて、なぜか一つの音がどこまでも伸びて、響き、その音の振動・響きによって、浄化しているのではないか? と思える事があります。
それもその時その時、現れ方が違うので、何とも説明できないのですが。