怒りも美しい
いやあ、怒りを出せない人が多い。怒り方がわからないのだと思う。そして、それ以前に、怒りは悪いもの、醜いものだと刷り込まれているのだと思う。怒りをぶつける相手や方向性を見事に間違えたトンチンカンな怒り方をしてしまう人も同じだ。怒るという行為に奇妙なパッケージを貼っているのだと思う。
ねぇ、そのパッケージ、要ります?
トンチンカンな怒りをぶちまけ、周囲を困惑させる人たちよ、怒りの奥にあるその悲しみを見よ。自分が何に怒っているのか、いや、何に傷ついているのか、欲しかったのに得られなかった愛は何か?まずは自分の内側を観よーーハナシはそれからだ。
私は牡羊座火星がディセンダントに乗っており、アセンダント上の天王星とオポジションである。いざとなると速やかにブチ切れる。木星期の今、めったにキレることはなくなった。それでも、年に数回は怒りを露わにすることがある。矛盾なく怒るとは清々しいものであり、気持ちのいいものだ。私は怒りという感情が結構好きなのだ。
なぜなら、「怒りそのもの」や「怒りという感情を無視しない」ということは、あくまで自分の問題だから。人からの反応や反響を考慮するのは社会性からくるもので、それも必要ではある。でも、社会性よりも大事なものは「自分をないがしろにしない、自分のスピリットを殺さない」ということ。
本能的叫びとしての怒りに表現の場を与えた時、何の罪悪感も羞恥心も後悔も湧かないようにできている。勿論、怒りを出したら、外界からの反響も受け取る覚悟がいる。怒りを引っ込めてなかったことにする方が楽だ。(その時、その瞬間はね)でも、怒りはなくならない。潜在下に抑え込まれ、無視された怒りは、未来永劫なくなりはしない。むしろ、反作用で、時を経るごとに巨大化していく。それも奇妙に形を変えていく。
怒りは考えて出すものではない。本能的に出てくるものだ。それなのに、なぜ、それを否定する?それは生命の発露であり、命の燃える音ではないか。ジリジリと音を立てて燃え上がる怒りを認めもせず、それを健全に表現することを知らないなんて、自分への冒涜でしかないと思う。自分をいじめるな。自分をいじめることは、この地球上において、最も悲しく切ないことなのだ。
汝の隣人を愛せよーーというあの言葉に、アタシは一言、申し上げたい。それは自分を愛した人だけができることである。自分の怒りや悲しみさえ認めてあげられない人にそれは酷な話だ。等身大の自分を置き去りにしたまま、愛だのスピリチュアルだのと宣う哀しさよ。自分の怒りや悲しみに蓋をして、人を愛しましょうだ?アセンションだ?笑わせないでくれ。
人間たちの内側に閉じ込められた、無数の感情たちが叫んでいるじゃないか!月的な社会に適応させるための道具として、社会性や愛や思いやりやスピリチュアルを利用しないでくれ。
怒りをありのまま認めれば、それは意外にも美しく表現される場を得るものだ。怒りを否定すればするほど、すべてをぶち壊す破壊性を持った奇妙で醜い現れ方をする。すべてはなくならない。すべての感情はなくならない。それが認められ、適切に表現される場を得るまでは・・・
怒りを誠実に伝えよう。そこには何の問題もないのだ。自分の中の怒りを解放した時、感情のメタモルフォーゼが起こる。これはすごいことである。感情が太陽の生きるエネルギーに転化されるのだから。奇妙なパッケージ、全部剥がしちゃいましょ!!!