見出し画像

月を違う側面から見ているだけ

占星術における一般的な月の解釈は「素の自分自身・頑張らなくても自然に発揮できる性質・生まれつきの性格」です。しかし、私はこれと異なる月解釈を発信しています。では、このふたつが相容れないものかというと、全くそうではありません。



出生時の月が与える性質・性格は確かに存在しています。私たちは間違いなく月星座の性質を持っています。しかし、それが本能的自己の安定を支えたり、癒しや活力をもたらすものかと言うと、実は全く違います。「月は素の自分自身」とするのか、または「月は囚われと幻想(あるいは欠損)」とするのかは、月をどのレイヤーで捉えているのかという、占星術師の視点の違いによるものなのです。



人生のごく初期段階に顕れてくる月の性質を「生来のもの・素の性格」と定義するのも自然なことです。しかし、生まれ落ちた瞬間の私たちを「太陽というバイタリティそのもの・何色にも染まることができる純真さを持つ存在」と定義し、そして、徐々に月の性質が浸食してくるーーと捉えることもできますね。



ゆえに、月=生まれながらの素の性格と解釈することも、月=7歳までに培われた仮の自我・囚われ・自己防衛反応であると解釈することも、実は同じものを違う角度から見ているだけであり、どちらも同じコインの裏表なのです。月は多重構造になっています。



より全体的で包括的な視点から月を捉える時、出生時の月が与える性質は「過去からの記憶に付随した恐れや不安により生み出された、無意識的自己防衛反応・脊椎反射」と言えます。そして、月星座の性質を持っていることは事実なのですが、冷静に観察すると「月の性質は未成熟で非常に不安定なもの」であることが見えてきます。



月の星座とハウスは「そこに不安定要素が存在している」ことを示しています。そこに強い拘りと囚われを持っているがゆえに、却って不安定になり、月の性質がアンバランスに過剰に出るか、欠落するかという現れ方をします。月星座が与える性質を支えているものは、そうであってほしいという切実な願いであり、それが脅かされたくはないという恐れーーです。



月蠍座の私は「自分が誤解されている」と思ったり、「本当の私を正しく理解されていない」と思った瞬間、強い感情反応が起こります。どうしてそんなことを言うの?それは違うーーと自己弁明せずにはいられないのです。それも、ごく身近な人に対してだけです。(水の第二星座だから)私にとって感情的に近い位置にいる大切な他者に限定されて、その自己防衛反応が生じます。



そこには、従来の月蠍座の性質である「少人数の心を許せる人間関係を欲する」「特定の誰かと濃厚な関係を維持していたい」という特性が確かに存在しています。しかし、それは素の私というよりも「大切な他者からの理解や愛を失いたくはない・裏切られたらどうしよう」という無意識の恐れから生じる「自動的反応・刷り込み」なのです。



月獅子座の人であれば、置かれた場において、自分が一番注目される存在でいられないと途端に不安になります。私には価値があり、誰よりも輝いているーーという自己承認を感じることができないシチュエーションは嫌なのです。それは自己の存在価値が認められないことへの強い恐れから生じるオートマティックな反応です。それを従来の解釈では「演劇的要素を持った自信家、華やかで煌びやかな性質」と表現しています。(その通りですね)



月双子座の人であれば、知性の鋭さや知識の豊富さ、理解の深さをいつも周囲に示していたいのです。頭が良くアカデミックな自分像を捨てたくないのです。それが欠けていると認めてしまうと、自我が崩壊しそうな恐怖を感じるのです。だから、過剰なまでに「表面的知性」に囚われてしまいます。ゆえに、いつも頭脳を使っていますし、知識や理解を深めることを好みます。従来の解釈では「情報や知識に敏感でフレキシブルな性質」と表現されます。ことごとくその通りですよねw



蠍座・獅子座・双子座を取り上げてみましたが、それ以外の月星座も全く同じ構造です。月星座の性質を、私たちは確かに持っています。ただし、その能力や性質は恐れに支えられた不安定なものです。そして、7歳程度の成長で止まっているため、社会の中で通用するようなレベルのシロモノではありません。そのことに気が付いていないのは、実は自分自身だけでw周囲の人は微笑ましく見守っています。こどもが一生懸命頑張っている姿を見て、怒る人はいません。生暖かく見守ってくれます。



だから、気づいて認めて降参すれば問題なんてありません。月蠍座の私は健全な深い人間関係を築く大人の能力はありません。(すべての月蠍座の人が同じというわけではなく、個々人でラスボスは異なります)だから、とことん素直になってバカになって、子どものように稚拙な愛情表現をするしかないのです。私には大人の表現なんてわからないし、無理なんだと認めてから、夫とぶつかることはなくなりました。(月の自己イメージの手放しです)そして、ごく少数の親友もできました。



月の感情的反応や防衛反応は消えることはないですし、なくさなくてもいいのです。ただ、気づいていればいいのです。自分自身を突き動かす衝動や反応のパターンに気づいていればいいのです。激しい怒りや瞬間的な絶望や何もかもを放棄したくなるような「どうにもならない強い反応」を月は齎します。でも、それでいいのです。それがあるから太陽に向かうことができるのです。



月の防衛反応に取り込まれれると、生きることを放棄したくなります。自分自身の創造性を信じられず、他者や世界との交わりを避け、内的世界に閉じこもっていたくなります。でも、だからこそ、太陽があるのです。私たちは太陽星座が示す特性に「心を開いていれば」大丈夫なんです。どんなに絶望しようとも太陽の自分を深めていくことで何度でも再生できます。何度でも生命力を取り戻すことができます。



太陽星座の性質は決して諦めてはいけない自己の姿です。どこまでも追及すべき自己の在り方です。そして、太陽のハウスは活力を与えてくれる事柄を示しています。月は無くならないし、無くなることが進化と成長ではありません。月を抱きしめたまま、どこまでも進むのです。私たちは絶望しながら、太陽を追求していくことで、魂の目的に近づき、やがて「永遠の存在」になることができます。(そもそも永遠なのです・・・)



そして、これが最もお伝えしたいことなのですが、月の執拗さは想像を絶します。無意識(潜在意識)に認めていない恐れや思い込みがあれば、必ず月で生きてしまうのです。これは誰もが避けられないことであり、自分では気づくことが大変に難しいものです。無意識(月)は強大で、自分では(そして、一見周囲から見ても)太陽で生きているように「見せること」さえできます。しかし、自分自身の恐れを真正面から認めることなしに、真に太陽に向かうことはできないのです。そのことをお伝えできれば幸いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?