夏 2024

 目を開けると夏だった。
 ただ晴れているだけでも、夏だとわかった。春の日差しとは異なり、力強く照りつける太陽。

 長いこと眠っていたような気がする。私はガラス張りの長方形の箱の中にいて、視線だけがここにあるような非現実感とともに微睡む。
 ふと焦りを感じて、四肢に意識を巡らす。大丈夫。両腕は胴体の横に揃えて置いていて、両脚はまっすぐ伸ばしている。お手本のような仰向けの姿勢だ。
 ひんやりとした心地がして、箱の外の世界は映画のようだ。


 上体を起こすと、ガラスの箱は消えてしまった。ここは間違いなく私の部屋だ。
 やるべきことがわかっていた。
 顔を洗って、天気予報を確認して、風通しの良い素材の服を選ぶ。日焼け止めを塗って、眉を描き、口紅を塗った。風の強い都会の夏は、ベタつかないメイクが楽だ。

 バッグに折り畳み傘とカーディガンと帽子を突っ込む。荷物に対してやや小さいバッグに無理に押し込むとき、私はいつも罪悪感に苛まれる。その心の痛みを子供っぽく感じて、荷物をさらに深く押し込んでからチャックを半分まで閉める。
 鏡をのぞくと、そばかすが目立っていた。


 私は勉強が嫌いだった。成績が良くて、友達と遊びたくなかったから、誰にも怪しまれないように、「勉強が好きだ」と嘘をついていた。
 一生遠くには行けないと思っていた。今もそう思っている。


 夏の思い出を呼び起こす。ベタついた潮風が鬱陶しくて、「もう二度と海には来ない」と誓ったことがあった。蒸し暑い教室で「あなたは将来成功する」と言われて、この人は信用しないことにしよう、と思ったことがあった。作文の書き出しを先生に見せたら、「本当に自分で書いたのか」と聞かれて、その後に小学生のような文章を続けて提出したことがあった。
 大嫌いな夏。暑くて苦しい夏。
 夏はできるだけ出かけない、と決めてから、夏の思い出はあまり増えなくなった。だから、夏はずっと子供のままでいられる。

 

 仕上げに香水を手首に振ると、香りとともに私は揮発してしまった。粒子が拡散していく様子を見ているうちに私はどこかに消え去り、後にはなにも残らなかった。


 それでは、今この文章を綴っているのは誰なのか? きっと誰でも構わないはずだ。
 どこかにありそうな誰かの意識。架空の夏の思い出。書きかけのメモの継ぎはぎ。目的のない文字列。入力に対する生成。


この文章はフィクションです。

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