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”必要”と”利用”は、全然違う。

人生100年時代と言われるようになり、アラフィフの私にの人生は、あと50年、今までと同じ時間だけ残されているのかと思うと、心がざわざわする。確かに50年だが、赤ん坊のころは記憶がないし、小学生前半までの悩みは、大したことがない。というと、同じ50年で、時間の”濃さ”が全然違う。そう思うと、益々ソワソワする。これからも働いて生活費を確保しなけれならない。ただやみくもに働くのではなく、今までの知識や経験を活かし、誰かの幸せのきっかけになればと、思うことに揺らぎない。だが、それをどう実現していいのか、ここ数年考えている。

そんな日々の中で、ありがたいことに、スカウトのメールをもらうこともある。30歳中盤に、留学を考えているととある人材紹介会社の人に言ったら、「1年後に日本に帰ってきて、仕事なんか紹介してもらえませんよ!」と失笑されたこととは違う現実だ。だが、スカウトメールを見ると、「何で私に声をかける!?」と思う。それは自分を卑下しているのではなく、単純に私だったら、私に声をかけるだろうかという疑問だ。

ホワイトカラーも若いことに越したことはない。だが、英語が話せて、外国で暮らしたことがあるという人は、決して多くない。それに日本での実務経験がある。多少年齢が高くても、そういった条件に、私は該当するのだろう。そういう経験がお役に立つのなら、「どうぞどうぞ、ご利用ください」と心から思う。仕事のゴールが明確で、プロセスも確立されているなら、私の”思い”などを理解してくれなくても、期待以上に頑張るだろう。

もし、「あなたの経験が必要なんです」と言われ、私の思いやこのHSPの特性も含め、”一緒なって、ともに成長してやっていきたい”と、私自身も認めてくれる環境なら、なおさら嬉しい。なぜなら、

身に着けてきた経験とは、私そのもので、私の歴史だ

だが、実際、”必要”という言葉を使う人は、私の経験や知識だけを見て、自分たちの組織というパズルのピースにどう当てはめるか、ということしか考えてないことが多い。組織の穴の補強に、うまく人の経験、知識がはまればいいが、そんな簡単にはいかない。やっぱり、そこには、その人の思い、歴史が備わっている。それを、形が合わないのに、力ずくで押し込む。多少窮屈でも、耐える人もいるのだろうが、私はどうしても、”自我”を抑えることが出来ず、結局はその組織を飛び出すことになる。近年、そんな繰り返しをしている気がする。

必要は、人の良いところも、悪いところも含め、受け入れること。
利用は、一部だけをとある目的のために使い捨てること。

やっぱり、人のことを利用する人は嫌いだ。だったら、最初から、「あなたのこの経験と知識を、こういう業務に利用させてもらいたい」と、言われた方が割り切れる。

少なくとも、”あなたが必要です”と私に使うなら、それ相当の覚悟を持ってほしいものだ。

追記:featurecompassさんのイラストを使わせていただきました。ありがとうございました。

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友理香
「人生経験の引き出し」がいっぱいあります。何か悩み解決のヒントになる話が提供できるかもしれません。