同じクラスのオナクラ嬢 第26話
番号がない、ということを認識するのに、時間がかかった。
実際は数秒のことだったのだろうが、あたしの中では数分間に感じられた。
ない。ない。何回見ても。あたしの番号である2857番の数字は、掲示されていない。
その場で崩れ落ちそうになる。周囲では、歓喜の声を上げている者や、泣いている者、胴上げをされている人たちがいる。嫌だ。こいつらに、自分が落ちたのだと悟られたくない。知られたくない。そんなの、屈辱以外の何ものでもない。
あたしはマフラーに顔を埋めるようにして、その場を後にする。誰とも目を合わせることなく、コートのポケットに手を入れて、大学の正門を出た。親に合格の報告をしている学生の声が、とても耳障りだったことを覚えている。
家に帰ると、いつもと変わらない光景があった。
父はソファーに座り新聞を読んでいて、母はキッチンで、漬物にでもするのか大根を切っていた。
あたしは、なんと言っていいのかわからないまま、冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し、口にした。そこで、父が、新聞から目を離さずに、「落ちたのか」と呟いた。
「合格したのなら、まず、それを言う。言わないということはそういうことだ。違うか?」
最後に「違うか?」と問いかける。それは、もはや父の口癖だった。この人は、いつだって自分が正しいと思っている。
「……うん。ごめん」
「謝ったところで、どうこうなるものじゃない」
父は新聞を閉じて、机の上に置いた。
「これから、どうするんだ」
「どうって……」
まだ、そんなこと考えられない。そう言いたかった。
頑張ったのに、残念だったね。そう言ってほしかった。
ないとは思っていたけれど、一言だけでも、優しい言葉をかけて欲しかった。
「ごめん。期待を、裏切っちゃって……」
けれど、実際に父の口から出た言葉は――
「そんなことはない。安心しろ」
机の上に置いてあったビジネス書を今度は手に取り、それを開き、ソファーに深く沈む。
「俺は、最初から、お前に期待なんかしていない」
とん、とん、とんと、まな板に包丁が落ちる音がする。
「受かるとも思っていなかった。だから、無駄な心配はするな」
ああ……。
あたしは、ぎゅっと唇を噛む。
いつだって、そうだ。あなたは、あなたたちは、そうやって、あたしを追い詰める。苦しめてきた。これまでも、これからも。
「なん、だよっ……!」
それがどういう感情か、自分でもわからない。
怒り、悲しみ、悔しみ……あらゆる感情がごちゃごちゃになり、それが、涙になる。
「なんでっ、そこでっ、一緒に悲しんだりとかっ、してくれないんだよっ……」
父は、つまらないものを見るような視線をこちらに向けて、鼻を鳴らした。
「俺が悲しめば、合格するのか? しないだろ? なら悲しむなんて無駄でしかない。違うか?」
「……っ」
ぎゅっと拳を握る。
一度でいいから褒めて欲しかった。いや、褒めてくれなくてもいい。自分という存在を認めて欲しかった。共感してほしかったんだ。嬉しいことを嬉しいと。悲しいことを悲しいと。辛いことを辛かったねと。
ただ、そう言ってほしかったんだ。そんな存在を、あたしは、求めていたんだ。
「あのさぁっ……!」
あたしが、自分の想いを伝えようとしたその時。
腕を、誰かに掴まれた。
見れば、母親だった。母が、あたしの腕を、掴んでいる。両目からは、ぽろぽろと涙を零していた。
あたしのために、泣いてくれている。
一瞬でもそう思ってしまったあたしは、途轍もない馬鹿者だ。
何年、この家で過ごしてきたんだよ。
「死のう、梨奈ちゃん」
「……え?」
あたしの腕を掴んでいる腕とは違う腕、その手には、包丁が握られているままだ。
「落ちたんだよね。恥ずかしいね。ご近所様にどんな顔すればいいの。やだよ。みっともない。お母さんまた馬鹿にされる。お父さんは頭良いのに。私の遺伝子のせいだって、みんなから責められる。耐えられないよ。死のう。一緒に。先に殺してあげるから。ね」
背中に冷たい汗が流れる。
母の瞳に光がない。何よりも怖かったのは、それを言う母の顔が、笑っているところだ。もうこの人は、おかしくなっている。あたしだ。あたしが、トリガーを引いてしまったのかもしれない。
「ややこしいことをするな。話をシンプルにすればいい」
父は、鞄から取り出した札束をあたしの方に投げた。3つの札束が、あたしの足元に落ちている。
「なに……これ……」
「それで当面生活できるだろ。君はもう神永の家のものではない。好きに生きろ。良かったな、自由だ」
「は……?」
「二度とこの家に入るな。今日、この瞬間から、君は他人です。出て行ってください」
呆然としているあたしに、床から札束を拾って、母が押し付けてくる。
「ああ、良かった! あなたなんて最初からいなかった! 良かった! じゃあね!!」
満面の笑顔でそう言われる。
もはや、涙すら出てこない。
思わず、笑ってしまう。
ひとしきり笑った後、最低限の荷物をまとめ、あたしは家を出た。
絶対に、復讐をしてやる。この家を潰してやる。必ず両親を不幸にしてやる。
それからの日々は必死だった。
家を借り、一年間我武者羅に勉強をして、元々志望していた大学よりも上位の大学に入学することができた。父はコンサル業をしており、その会社を潰すためには、相当に優秀な人物と出会うのが一番手っ取り早いと思った。幸いにも顔はそれなりに良く生まれたため、男につけいるのは容易だ。
サークルの新歓コンパにも積極的に参加をして、男を値踏みした。資産家の家系の男や、将来有望そうな男を見つけては自分からアプローチをし、唾をつけた。一人だけだと何かあった時に手持ちが失われてしまう。リスクヘッジのために、何人もの男と寝た。学生だけではなく、人脈を通して知り合った、先生と呼ばれる職業の男や、少し怪しい業界に顔の利く男、公的な機関に勤めている男など、様々だ。
その日も、男漁りをしようとよく知りもしない新歓コンパに顔を出して、いつものように媚びを売りながらお酒を注ぎつつ男たちを観察していた日だった。
「おい、沖内くんっていったっけ、キミ大丈夫かよ」
ひとりの学生が、ふらふらとしているかと思えば、床に倒れ込んでしまった。
「もう帰ってもいいですか……」
「ああ、帰れ帰れ。邪魔だよ、お前みたいなのがいると」
「すみませぇん……」
先輩であろう学生にしっしと手で帰る様に促された沖内と呼ばれた男は、「あ、ひとりじゃ帰れなそうなんで、だれか付き添ってもらってもいいですか」と言う。
「あーあー、好きにしろよ」
「えっと、じゃあ……」
そこで、床に突っ伏したままの沖内の顔が、ぐるんとこっちに向いた。ホラー映像みたいで悲鳴を上げそうになった。
「神永さん、お願いします」
「……は?」
なんだこいつ!! あたしの邪魔しやがって!!
そうは思ったけれど、そこで邪険に扱ってしまっては、ここにいる男性陣に悪い印象を持たれそうだ。それが大学で広まってしまったら意味がない。
あたしは無理に笑顔を作り、沖内と一緒にゆっくりと店を出た。
店を出た瞬間に、沖内が店の方を振り返り、誰もついていないことを確認すると、すっと急に姿勢良く歩き出すようになった。
「え……?」
呆然としているあたしに、沖内は言った。
「ああ、ごめん。ちょっと思ってたサークルと違ってたから、コンパ抜け出したくて」
そう言って、屈託のない笑みをあたしに見せる。
夜風で、前髪がそよいだ。
「はぁ……」
あたしは言ってから、眉をしかめる。
「え? なんでそれにあたしを巻き込むの?」
「それは……」
沖内は、星空を見上げるように仰いでから、「僕の勘違いだったら申し訳ないんだけど」と言ってから、どこか恥ずかしそうに続けた。
「なんだか、あなたがとても無理して、苦しんでいるように見えたから」
それは――。
あたしが一番、求めていた言葉だった。
〇
沖内正くんが、あたしの両肩を抑え込むようにしている。
どこかとても苦しそうな表情を、俯かせて、言葉をゆっくりと紡ぎ出す。
「……ごめん。神永さん。僕にはできない。それは、駄目だよ」
正くんが、唐沢さんと初めての性行為をして、それに続くように、あたしがそういう行為を求めたことに対しての、返答だった。
「え? な、なんで。正くんだって、興奮、収まってないでしょ。いいじゃん。やろうよ。生でやるの、気持ちいいんだよ」
「僕は、晶と、した。晶から好きと言われた。僕も好きと返した。その責任は、取らないといけない。その直後に別の女性とするなんて、不誠実すぎる。だからできない。ごめん」
ふ、と笑みを漏らしてから、それを漏らしたのが自分だということになかなか気づかなかった。
「真面目だなぁ、正くんは。そんなんだからついさっきまで童貞だったんだよ」
脱ごうとしていた服を、あたしは正す。一度こうなったら、正くんの意志は固い。知ってるよ。短い期間だったとはいえ、付き合ってたんだから。
「っていうか、あたしも本気じゃなかったし。試してみただけっていうか。一種の試験だよね。ここであたしと寝るようなことを選ぶようだったら、唐沢さんにあの男やめといたほうがいいよーって言うためのね。だから自惚れんなよ。別に、正くんのためじゃなくて、唐沢さんのためにしようとしてたんだから」
言葉が、止まらない。次々と、溢れだす。
「あたしが本気で正くんとすると思った? 残念でした! そんなわけないじゃん! だってあたし正くんのこと嫌いだし! 一度振ってるし! より戻そうとか言われたらどうしようかと思った! あー良かった! おめでとう、唐沢さんと恋人同士になれて! 芋臭い初心同士お似合いだと思うよ! あたしは無理だったなー、正くんみたいな糞短小童貞と付き合うの! 正くんなんかと付き合わなきゃいけない唐沢さん、かわいそー!」
止まらない。次々と、溢れだす。
――何が?
「……ごめん」
正くんが、頭を下げる。
「は? 意味わかんないんだけど。なにがごめんなの」
「……結局僕は、神永さんに何もしてあげられなかった」
「……っ」
気がついたら、顔が濡れている。ぽたぽたと、頬を伝った水滴が、床に零れる。
「今もまた、そうやって、無理をしてる。苦しんでる。支えになれなくて、ごめん」
「や……」
やめてよ。
そういうこと、言わないでよ。
もう可能性がないなら、優しい言葉、吐かないで……。
「最期はあれだったけど、それでも、きみと過ごした時間は、僕にとって、確かに宝物だった」
「そんっ……」
そんなの、あたしの台詞なんだよ。
初めてだったんだよ。
正くんみたいな男の人。
あたしに、共感して、寄り添ってくれた人。
この先も、きっといないよ。
いいなあ、唐沢さん。
あたしも、もっと素直に、我儘に、恰好悪くなっていればよかったのかな。
もう、今更だけど。
もう、正くんが、あたしだけを見ることはないけれど。
「僕は、神永さんのことが好きだったよ。ありがとう」
はっきりとした過去形。気持ちが良いくらいだ。返さなきゃ。もう、これが、今の関係性のピリオドだ。なら、言わなきゃ。最期の最期で、後悔を残さないためにも。
「あたし、もっ……」
いつ以来だろう。人前で泣き顔を見せるのは。
幸せなのかもしれない。そんな表情を見せる相手がいるということは。
「あたしも、正くんのこと、好きでしたっ……」
ああ、言えた。
ようやく、言えた。
素直になれたね。
良かったよ。
もう色々なものは失ったし、本当に欲しかったものは手に入れられないけど。
それでも、せめて。
せめて、最期は、幸せな記憶で良かった。
あたしは携帯電話を取り出して、正くんに見せながら、以前撮った彼の恥ずかしい写真を削除する。
「正くん。元カノから、最後に一個だけお願いしてもいい?」
「……うん」
「絶対、唐沢さんと幸せになってね」
勇気を出して、想いを伝えられた唐沢さんと。
それに応えて、他の誘惑を振り切った正くん。
そんな、素敵で、尊いものがこの世に存在するということ。
これからもずっと、証明してね。
約束だよ。
「うん、必ず」
正くんが、力強く答えてくれた。
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